説教・行事

2008/1/6 日曜日

新年にあたって

 「神、我らと共にいます-そのもう一つの意味」          
                 マタイによる福音書 2:13-23

占星術の学者たちは、イエス様を礼拝するとヘロデ王のところへは寄らずに自分の国に帰りました。それを知ったヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺し、そこに深い悲しみが起りました。それは子を亡くしたラケルの悲しみ、かつてイスラエルがアッシリアによって奴隷とされた者の集合地ラマの叫びと同じです。

イエス様は危機一髪でエジプトに逃れ、そこに住み、ヘロデが亡くなった後も大事をとってマリヤの故郷、信仰の光の届かないナザレで成長されました。

マタイはイエス様とモーセ、男の子を殺し続けたファラオとヘロデ、イエス様によって起ったラマの悲劇とアッシリヤ(バビロン)の悲劇を重ね合わせて記します。

マタイは「神は我らと共にいます」の福音を記します。私たちが神様と共にいる以上に神様が私たちと共にいて下さり、世の終わりまで共にいて下さいます。(マタイ28:20)
しかしその私は過去を引きずっています。良いことだけでなく辛く悲しい、ユダヤの過去と同じ、できればやりなおしたいと思う歩みを引きずっています。私たちは自分の過去を忘れたりなかったものとしたりはできません。しかも自分の過去が清算されなければ新しい出発ができないことも知っています。イエス様が「共にいてくださる」とは、そんな私の過去をたどりなおし、踏み直してくださることであり、これが私たちが信じている主なのです。 

新年にあたってもう一度これを確認して出発したいと思います。

                    富里教会牧師 内田汎

 

2007/12/27 木曜日

愛に生きる(クリスマスに当たって)

「愛に生きる」            

                     マタイ 5:43-48

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」
 これはキリストの有名な山上の説教の1節です。しかしよく読んで見ればこれは実行不可能のように思います。愛せないから敵というのですが、その敵を愛せよと言われます。自分によくしてくれる人を愛し、そうでない人にはそれなりの対応をするのが私たちだからです。しかしそれでは私たちの周囲の関係はよくならず、悪の報酬の連鎖はなくなりません。

 自分は悪いことはしないし、人に迷惑をかけていない。それが生きる基本でしょうし、子供にもそれを教えます。しかしそれは生き方の半分です。義に生きると共に愛にも生きる必要があるのです。どうしたら皆と一緒の生きられるかにはいつも二つの面があるのです。
 キリストの言葉を受けて立ちたいと思います。このことばを家族から初めて私たちの周囲に持ち運べないでしょうか。

                   富里教会 牧師 内田汎

2007/12/26 水曜日

救い主を拝みに行く

「救い主を拝みに行く-不安と喜び」        

                                  マタイ 2:1-12

イエス様の誕生に対して二つの反応があります。

 「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」
 ヘロデ王の不安はわかります。新しい王の誕生は自分の立場を脅かします。エルサレムの住民の不安は、新しい王の誕生による政変や流血を恐れたのかもしれませんが、実はエルサレムの住民も私たちも皆小ヘロデなのです。一度手に入れたものは自由であれ権力であれ、地位や富も手離したくないのです。
 奪われるのではないかと言う不安は、神様を抜きに持とうとするからです。不安への最大の妙薬は、それを与えてくださった神様の愛のみ手にゆだねることなのです。

 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。…彼らはひれ伏して幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」
 学者たちは大変な旅をしてイエス様を礼拝にきました。星の導きでイエス様に出合い、大きな喜びにあふれて宝物を献げたのでした。自分が宝物を得たのはこのためであり、宝物は私蔵するのではなく捧げるため、自分の人生もそのためにあったことをはっきりさせけたのです。
 
 不安は失うまいとするのでなくゆだねることで平安になり、喜びは獲得する以上に得たものを献げることで与えられます。それはどれだけ周りの人が見えているかなのです。

                            富里教会 牧師 内田汎

2007/12/10 月曜日

ここに希望がある

救いの歴史」               
                                 マタイ 1:1-17

 聖書の冒頭は系図から始まっています。系図は、系図を書くことでそれまでの歴史を表しますから、アブラハムから始まるイスラエルの歴史を表しています(参・歴代誌)。この系図は三つに区分され、7の倍数にこだわって14代づつに分けられていますが、実数ではありません。

 初めのアブラハムからダビデまでは、アブラハムから始まるイスラエルの民が、家族から民族に成長し、紆余曲折はあるものの国を造り上げてダビデでその頂点を極めるまでの様子が記され、創世記12章からサムエル記までの内容です。
 二番目のダビデからエコンヤまでは、国が二つに分裂し、兄弟国の北イスラエル王国はアッシリヤに、南ユダヤ王国はバビロンに滅ぼされるまでの様子、列王記の内容が記されています。
 三番目のエコンヤからヨセフまでは、歴史の表面から地下に潜った様子を表し、聖書にもほとんど記述がありません。

 しかもこの系図には、普通なら決して明らかにしたくない4人の婦人の名が記されています。 

 この系図は、人類のそして私の人生です。栄枯盛衰とその間にちりばめられた罪と恥の数々。そこにイエス様はお生まれ下さいました。神様が共にいてくださるしるしとして。ここに希望があります。

                              富里教会牧師  内田 汎



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