説教・行事

2008/4/20 日曜日

悔い改めて赦しに生きる

「神の前で生きているか」      マルコ 6・14ー29

 ヨハネの生涯は救い主を迎える準備でした。救いは真実な生活に私たちを導くことですから、救いのための最大の準備は、罪を示し、悔い改めに導くことです。あなたの生き方は神の前でそれでいいのかと人々に鋭く迫り、返す刀で領主ヘロデの不義も裁きます。そのためヨハネは、マケラスの要塞に幽閉されます。            
 ヘロデはまさか自分の誕生日にヨハネを殺害するなど思ってもみなかったに違いありません。酒に酔って、ヘロデヤの連れ子サロメに軽口をたたき、自分の面子のためにヨハネを殺してしまいます。

 ヘロデのしたことはダビデのしたこととそっくりです。ダビデはウリヤの妻バト・シェバを自分のものとしてしまいます。預言者ナタンによってそれが糾弾されたことも同じです。しかしダビデは自分の面子を捨てて神様に赦しを請い、逆にヘロデはヨハネを殺してしまいます。

 人が救われるのは罪を犯さないからではありません。間違いや失敗のない人は一人もいません。罪を犯したあと、面子にこだわるか、神様の前にへりくだるかなのです。
 神様の前で自分の罪に気付き、イエス様によってその罪が赦されていることには、もっと気付きたいと思います。

2008/4/6 日曜日

与えられたのは与えるため

「恵みを携える者」                            マルコ 6・6ー13 

 イエス様は二人を一組にして弟子たちを伝道に遣わされました。その際何を告げるか以上に、どう生きるかを語られます。伝道は言葉でもなされますが、私たちの生き様がそれ以上にイエス様を伝えるからです。

 旅には杖一本を持ち、履物をはくだけで、パンも袋もお金も持たせませんでした。物が伝道するのではないのです。生ける神様の愛の支配、思い煩いとは無縁な生活をその生き方で伝えるのです。
 その土地で、都合が悪くなったらすぐに引っ越すような無責任な生活(伝道)はしません。
 更にまた、主の支配を受け入れなければ神様と無縁の生活を送ることになることを、行動で(足のチリを払い落とす)示します。これを無視すれば神様の恵とは無縁の生活を送ることになるのですよと。私たちが委ねられ、神様の支配を語る言葉は無視されてよいはずはないのです。

 イエス様もパウロも伝道を命じました。伝えることで私に伝えられた福音が更にはっきりするからです(Ⅰコリント9・23)。
 また、自分が救われるだけで周りの者に救いが語られないとすれば、それは聖書の信仰ではありません(創世記12・3)。知らされたのは伝えるためであり、涙が拭われたのはイエス様と一緒に涙を拭う者になるためなのです。

                                   富里教会 牧師  内田 汎
                                                      

2008/3/23 日曜日

イースターの嘉信

「神の出来事」                              マルコ 16・1ー8 

 イエス様の復活にふれた婦人たちは戸惑い恐れました。私も戸惑い迷いました。十字架については語りますが、復活については薄雲がかかったようで歯切れが悪いのです。二つの事を知ることで薄雲が晴れました。

 聖書にはイエス様の復活について納得のいく説明はありません。天使が現れて、空虚な墓を示してキリストの復活を宣言しただけなのです。
 納得できることと信仰は違います。納得したのであれば信じる必要はありません。物ならば切り刻んで納得するまで調べることが出来ますが、人格の関係は最後は信じる以外ないのです。見ても信じますが、見ないでも信じられるのはもっと幸いです。
 イエス様の十字架は比類ない愛の話です。私たちの周囲にある愛の話はいつも暗い影がついて廻ります。愛の話であればあるほど悲しい話でもあります。しかし私たちのために十字架に掛けられたイエス様は甦えられたのです。ここに私たちの救いの突き抜ける喜びがあります。

 クリスマスは神の愛が明らかになった時ですが、イースターは神様が生きて働いていることが明らかになった時です。
 この神様に「ガリラヤ」で出会います。神様を信じる者より信じない者のほうがはるかに多く、逃げだしたくなるような問題や課題のある生活の場、私の「ガリラヤ」で出会います。そこに甦りの主はおられるのです。

富里教会 牧師  内田 汎
 

2008/3/16 日曜日

十字架の意味

 「暗さをつき抜けて平安へ」                  マルコ 15・33ー47

 イエス様は十字架の上で六時間苦しまれ、地上の生涯を終え、墓に葬られました。
 マルコは押さえた筆でその“事実”を伝えます。感情をさしはさまない描写だけに、イエス様の様子がひしひしと伝わってきます。
 二つの異変を記します。「昼の十二時になると、全地は暗くなり」と、イエス様が息を引き取られた後、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ことです。マルコはこの二つを記すことで、イエス様の十字架の“意味”を伝えたかったに違いありません。

 「暗さ」とは、神に捨てられる暗さです。神をもたない暗さです。信じるべき方をもたず、人生の夕暮が近づき、体力に陰りが見え始め、一体自分はどこに向かっているのか、私たちの知る暗さはその片鱗にすぎません。
 イエス様のして下さったことにより、神様と人を隔てるものが取り去られたのです(ヘブライ9章)。信じる方をもつ平安と幸いの道が開かれたのです。

 「何の疑もなく/こんな者でも/たしかに救って下さると信ずれば/ただあり難し/生きる張合がしぜんとわいてくる」 八木重吉

                                    富里教会 牧師  内田 汎

                                                      

2008/3/9 日曜日

思惑をくずす

 「思いを越える救い主」             マルコ 6・1ー6 

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。…その手で行なわれる奇跡は一体なにか。この人は大工ではないか。マリヤの息子で…兄弟、姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」                                      
 

 これは郷里の人々の反応です。故郷の人たちはイエス様の氏素性を知っているとして、その本質を見るのではなく周辺で判断してしまいます。これはある意味では致し方のないことでしょう。イエス様は「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。 
                                 
 しかしこれはイエス様を上辺で誤解したというだけではなく、本質にかかわる躓きでもあります。
 「マリヤの息子」と故郷の人は言いました。ユダヤでは人を語る時は父の名を言いますから、これは異例です。故郷の人たちもマリヤが結婚前に身重になったことを知っていたのでしょう。私たちは「主は聖霊によって宿り処女マリヤより生まれ」と感謝をもって告白していますが、故郷の人たちは揶揄を持ってそれを語ります。自分たちはお前の事を何もかも知っているぞと言います。実は故郷の人たちにとってもイエス様は、何もかもを知られ、知っているからこそ救い主なのです。それがわかりません。
 

 私たちと一緒に住んだからこそ私たちの痛みも悲しみも、問題のすべてをわかっていて、執り成して下さるのです。それが受肉の意味です。そういう救い主なのです。                                     

                                                                    富里教会 牧師  内田 汎

                                                      

2008/3/2 日曜日

生ける神の業

 「奇跡と信仰」               

                                   マルコ 5・35ー6・6

 イエス様のご生涯には4種類の奇跡があります。自然(嵐を鎮め、パンを与えるなど)、肉体(各種の病気を癒す)、悪霊(悪霊を追い出すなど)、死(死者を生き返らせる)に対して行なわれたもので、それはイエス様が自然界、肉体、霊界、死に対してすら主であられることを示しています。

 奇跡はイエス様の人々への深い愛の発露であって(自然に対しての奇跡ですら)、ただ人を驚かせたり、奇跡のための奇跡はありません。
 奇跡はイエス様への信頼と従順のあるところで行なわれ、それの無いところでは起こりません(6:1ー6)。
 もっとも大切なことは、奇跡は神様が神様として崇められるためのものであって、私の都合のためではないことです。ある者は病気が癒されて神様の栄光を現わし(ヨハネ11:1-4)、ある者は癒されなくても、それに耐える 力が与えられて神を賛美し、その栄光を現わします(2コリント 12:7-10)。

 生ける神様を信じ従うのですから、奇跡の無い信仰はありません。信仰は人生観や世界観ではないのです。奇跡の問題は、私が行なえるかどうかではありませんし、私に都合がいいかどうかでもありません。神様にとって必要かどうかなのです。

                                                                                                    富里教会 牧師 内田汎

   

2008/2/17 日曜日

恐れを信頼に

 「恐れるな、信ぜよ」        
                         マルコ 5・21ー43

 会堂長ヤイロは、危篤な娘を気遣ってじりじりしていました。折角イエス様が娘のところに向かって下さっていたのに、出血の止まらない女のことで時間をとられたのです。そして「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と聞かされます。死は私達から全てを奪います。人生の喜びも、一家の団欒も。人は死の前に無力なのです。

 「恐れることはない、ただ信じなさい」「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」 イエス様(聖書)にとって死は死ではなく、甦るための眠りなのです。この娘も私たち同様にやがて死にます。イエス様は甦りの先取りをされて娘と父を繋がれたのです。

 松原教会山田京二牧師は「私達が求めているのは死なないで生きることであるが(死んだら絶望)、福音が私達に伝えようとしているのは死んでも生きる(死を越えての望み)ことである」と言われます。

 「国籍は天にあり」と言い、「身体の甦りを信ず」と告白します。それは葬式の常套語ではありません。私たちは死を越えての望みに生きています。死は永遠の別れでも、無に帰することでも決してないのです。イエス様が十字架の死と甦りによって私達を天につないで下さったのです。

                                                   富里教会牧師 内田 汎
                       

2008/2/10 日曜日

信仰の成熟

「癒しから救いへ」             マルコ 5・21ー34

 十二年も出血が止まらない女が、群衆にまぎれこんでイエス様の衣にさわりました。衣にでもさわれば癒されると思ってのことです。そして事実癒されました。イエス様は人生の非常口です。
 聖書の信仰はここから始まります。病気が治って一切の問題が解決したのではありません。この女は病気が治って社会に復帰し、結婚だってするかもしれません。病気の時は早く治って生きたいと思うでしょうが、健康になったら一層のこと死んでしまいたいと思う問題にも出会うのです。

 恵みをいただいて、それでこと足れりとする信仰は脆弱です。倦怠と慣れはいつも私たちについて回ります。恵みは時と共に色あせ、感謝は感謝でなくなるからです。                                                           
 私たちは、愛し愛され、配慮し配慮される関係の中で毎日を生きています。信仰とは、神様とこの関係に入ることです。この関係を結ぶためにイエス様は女を捜されたのでした。

 女はイエス様の前にありのままを語って自分を投げ出し、イエス様も「安心して行きなさい」と語られます。目先のあの事この問題の解決だけでなく、その後の生涯を神様の愛と配慮の中で生きられるのです。                                                       

                      富里教会 牧師 内田 汎

2008/2/3 日曜日

揺さぶられよ

 「主人の交代」                マルコ 5・1ー20 

 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ『いと 高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほし い』イエスが『汚れた霊この人から出て行け』と言われたからである」 

 汚れた霊につかれ、墓場に住む男。これは私たちの象徴です。人との交わりに生きられず、他人を傷つけ、自分も傷ついて苦しむ。そこに救い主が来られると激しくこれを拒む。明らかに矛盾ですが、これが私たちの姿です。

 十字架と甦りの主は、私たちに近付いてこられます。イエス様と出会うことは恐ろしいことです。イエス様から自分に都合のよいところだけを摂取するのではなく、私が倒され、イエス様に組み敷かれる事だからです。これが救いで、これ以外ありません。自分のからが破られない救いなど、自分を超える問題、まして死の前には何の力もありません。      

 苦しい時イエス様に委ねる幸いを私たちは知っています。落ち込んだ時だけでなく、自我に固まった時も、「我が愛におれ、我に委ねよ、我に従え」と言われるイエス様に自分を明け渡し、整えられていくのです。

                       富里教会牧師 内田汎  
 
 

2008/1/21 月曜日

まだ信じないのか

「嵐の中を進む」               マルコ 4・35ー41
                                  
舟は私たちの人生の象徴です。舟は事もなく進んでいくようですが、いつ沈んでもおかしくありません。舟は舟である限り絶対に安全ということはないのです。私たちは自分で漕いで目的地へ行こうとしますし、行ける時もありますが、いつも危険が隣り合わせです。私たちは何と身も心も壊れやすいことでしょう。                      
 しかも嵐は突然襲います。こちらがいくら注意していても、危険は向こうからやって来ます。必死で手立てをつくしても、手に余る嵐が舟を飲み込もうとするのです。                                                         

イエス様はともを枕に眠っておられます。イエス様にとっても嵐は嵐に違いありませんが、世界は神様の支配しておられるところで、嵐の背後にその支配を見て、身を委ねておられるのです。             
弟子の悲鳴に起き上がり、「黙れ、静まれ」と湖を叱られ、「まだ信じないのか」と言われます。
 
湖を舟で渡る私たちにとって嵐は、イエス様が一緒にいて下さることが明らかになる時です。私たちの信じているイエス様がどういうお方なのかが明らかになる時なのです。
「愛する神様、わたしを守ってください。海はあんなに広く、私の舟はこんなに小さいのですから」(ブルターニュの漁師の祈り) その舟にイエス様が乗っておられることがわかるときなのです。

                     富里教会 牧師 内田汎
 

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