説教・行事

2008/5/5 月曜日

春のチャペルコンサ-ト

新しい人のための特別音楽礼拝

5月25日(日) 開場9:30 10:00~11:30

テーマ「感謝に満ちた生活へ」

演奏・証 ハープ奏者 佐々木冬彦氏

曲目 バッハ「プレリュード」 佐々木冬彦「祈り」 シューマ      ン「トロイメライ」 ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」 讃美 歌「アメイジンググレイス」 他

皆様のおいでをお待ちしております。

2007/12/17 月曜日

神は我々と共にいます

「神は我らと共におられる」        

                                マタイ 1:18-25

 ヨセフにとっては青天の霹靂でした。婚約していたマリヤが身重となったのです。何日も眠れぬ夜を過ごし、怒り、煩悶したに違いありません。これはマリヤとても同じです。律法に従えば公にしてその結果石打の刑にすることですが、ヨセフにはそれは出来ませんので、密かに婚約を解消しようとしました。
 「このように考えていると主の天使が表われて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずに妻マリヤを迎え入れなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリヤは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
 ある人は、これは神様がヨセフに頼んだ言葉だと言います。縁を切ってはいけない。妻として迎え、生まれてくる子を自分の子として迎えて欲しいと。
 二人は神様の言葉に従って、ベツレヘムで宿屋を探し、生まれた子をイエスと名付け、ヘロデの殺害を知るとエジプトに下り、ベツレヘムに住みました。黙々と神様のお心に従って、それによって神様の業が起ったのです。イエス様によって「神は我々と共におられる」ことがはっきりしました。
 救いは神様がただ存在するだけでなく、共におられる。世の終わりまで共にいてくださることがはっきりすることです。その際、ただ共にいてくださるのではありません。罪を犯した者を、イエス様を代わりに罰することで赦し、それで神様が共にいてくださるのです。わたしが神様と共に人生を歩くことが信仰のように思いますが、神様の方が共に歩んでくださると決意してくださったのです。ここに聖書の徹底した救いがあります。

                              富里教会牧師 内田汎

2007/11/11 日曜日

わたしの母、わたしの兄弟

説教から一言「わたしの母、兄弟」           
                           マルコ 3・31ー35

 「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(3・35)

 私たちは肉親によってこの世に生を受け、育まれ、導かれてきました。このこと抜きには今日の私たちは考えられません。
 しかし私たちを今日あらしめたものは肉親や友人だけではありません。わたしが配慮する以上にわたしを配慮し、自分で自分を気遣う以上に愛と赦しをもってわたしを気遣い給うお方がいるのです。
 同じ父母から生を受けたものが兄弟であるように、この天の父の元で、私たちは兄弟姉妹なのです。

 主イエスは肉親を捨てよと言ったり、肉親はこの世では仮の姿であると言われたのでもありません。肉親の関係は神様によってとらえなおされ、清められる必要があるのです。
 肉親の愛は麗しいものです。そこには他人が入りこめません。しかしそれだけに、肉親の故の我がままや醜さも私たちは知っています。
 神様から託されたものとして、肉親を愛し、育み、仕えます。真実に神様が崇められるところで、肉親の関係も強められ、清められるのです。
 

2007/11/4 日曜日

赦される罪、赦されない罪

説教から一言 「赦される罪、赦されない罪」               
                           マルコ 3・20ー30
           
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」

 彼らはイエス様の行状を見て、それが尋常なことでないことは分かっていました。しかしイエス様の業を神様の業とは認めず、あえて汚れた霊に取りつかれた者の業としたのでした。

 無知、無理解、弱さから、人はしばしば罪を犯します。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ 23:34)と叫ばれた主イエスの十字架のなかに、これらは包み込まれています。

 しかし、事実を知りながら、分かっていながら、故意に自己を押し立てて事柄を認めないかたくなさ、これが問題です。
 聖霊は私達の心の内に、罪と赦しをささやきかけます(1コリント 12:3)。この導きを拒む者に悔い改めと赦しのないことは必定です。このささやきを拒んで、人は一体どこでその歩みを正されるのでしょうか。
                      富里教会 牧師 内田 汎                                                 

2007/10/15 月曜日

神の赦しと愛に立つ

 説教から一言「神の赦しと愛に生きる」         
                      マルコ 3・13ー19

 十二弟子の中にイエス様を裏切ったユダがいます。イエス様は間違って選んだのではありませんし、決して裏切らない者だけを選んだのではありません。ユダの問題は、私の問題なのです。

 他の弟子達もイエス様を見捨ててゲッセマネの闇に逃げ去り、ペトロは神かけてイエス様を否定しました。程度の差こそあれユダも他の弟子達もイエス様を裏切ったことは同じで、後でそれを悔やんだことも同じです。  弟子達がイエス様を見捨てても、イエス様が弟子達を捨てたのではありません。ペトロは惨めな姿をそのままイエス様の前にさらし、ユダは一見潔く失敗を自分で処理しました。ペトロとユダの差は紙一重です。主の赦しに生きるか、自分の心のままに生きるかです。自分でも自分を裁かず、(1コリント4:1-4)、主の赦しの恵みにしたたかに生きる、これが信仰者です。
                          
〈深津文雄〉「悲しみを通らない喜びはやがて悲しみに終わる、しかし悲しみを通った喜びは再び悲しみに変わることはない。病むまでの健康でなく病みぬいた健康、失敗するまでの成功でなく失敗を克服した成功、汚れるまでの清さでなく汚れから立ち上がる清さを私達は主から求めよう。主は喜んで世の罪を担い、苦しみを受け、一度黄泉に下り、そこから甦られのだから」
                   富里教会牧師 内田汎

2007/7/1 日曜日

権威ある方

説教から一言 「権威ある者」             マルコ 1・21ー28 

 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威あ  
る者としてお教えになったからである」

 律法学者は人々の律法を教える者で、物知りです。しかしいくら知識が
あっても、知識の切り売りは人生の問題で人を打つ権威はありません。 
イエス様は言行が一致しておられました。そのお言葉は口先だけでな存        在をかけたお言葉です。人を救うためその生涯を十字架に投げ出し、人
を愛し、受け入れ、救わないではおかない言葉なのです。

 そのことを、そこにいた男から汚れた霊(悪霊と同じ)を追いだすことで        明らかにされました。
 当時は、精神疾患も白内障も脳溢血もみな悪霊の業と考えられていま        した。勿論今は違います。しかし、どんなに医学が発達してその仕組みが       分かって治療できるようになっても、人間を越えて人間に悪を及ぼす働き       はあるのです(エフエソ 2:1-3)。                                        イエス様は十字架に 生涯をかけたお言葉によって悪霊の根を断ち切ら            れたのです。                                             私たちは弱いのです。一つの苦しみには立ち向かえても、二つ三つと苦
しみが続くと、思わずお祓いをしたくなります。しかし、私たちにはこの主        がいるのです。私たちはこの主の支配のもとに入れられているのです。
(コロサイ1:13)

                             富里教会 牧師  内田 汎

2007/6/10 日曜日

私たちをおおっている神の愛

 説教から一言「私たちをおおっている神の愛」  
                                 マルコ 1・14-15

         
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」イエス様
の第一声です。

 神様の定められた決定的な「その時」が来たのです。「神の国」とは、場所よりむしろ支配です。「近づく」とは、遠くからだんだん近づくのではなく、ここに、のしかかるように来ていることです。
 神様が人を救うために定められた時が来て、神様の愛の支配がここに来
ているということです。

 「悔い改める」とは、失敗した自分の過去を反省したり悔いることではありません。新しく生まれる(ヨハネ3:3)ことです。自分の視野と才覚だけ で生きていた者が、神様の方向にむかって生きること、自分中心から神中心に生き方が変わることです。
 ヨハネは罪人への迫り来る神の怒りから悔い改めを説きました。イエス様は罪人への迫り来た愛から悔い改めを説きます。

 天道是か否か。生まれながらの体のハンディや突然のアクシデント。私たちは時として、ぞっとするような人生の深みを覗きます。その際、苦しみや悲しみを、暗黒や罰からでなく、愛の支配の中で見なおしていますか。のしかかるような神様の愛の支配が、イエス様によってもたらされたのです。        このことは、聞きおくだけでは自分のものとはなりません。何事でもそうですが、語られたとおりに一歩を踏みだして、初めて自分のものになります。四人の弟子の召命は、その実例です。

                             富里教会 牧師 内田 汎

1970/1/1 木曜日

心の不通の原因と対策

2007年度富里教会クリスマスのご案内

クリスマス礼拝・祝会

12月23日(日)朝10時~11時30分 礼拝説教「救い主を拝みに行く」 聖書マタイによる福音書2章1-12節 礼拝式後、昼食会(祝会)をいたします。会費200円。ご参加ください。

クリスマスイヴ キャンドル・サーヴィス(燭火礼拝)

12月24日(月・祝)夕6時30分~8時 合唱団「たんぽぽ」と共催してクリスマスにちなむ聖書を読み、讃美歌を歌います。会の後7時半~8時ころまで紅茶を飲みクッキーや軽食をいただきながら歓談のときをもちます。皆様ぜひご参加ください。

バベルの塔」                             
                                  創世記11・1ー9

 人々は石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れました。その技術と文明を用いて「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散ることが無いようにしよう」と言い、それを実行しました。
 
 文明が悪いのではありません。技術の発達は、人を繁栄と便利な生活へ導きます。それが塔のある町を建てることを可能にし、人々は嬉々としてその作業をしたに違いありません。共通の目標は人を一つにします。
 しかし、時をかけても塔は完成せず、言葉は通じなくなり、ついには人々は散りじりになってしまいました。聖書には神様がそうしたように書かれていますが、それは人の自業自得なのです。技術の故に自分を誇り、自分を絶対化した時、隣人との言葉が通じなくなり、散りじりになります。言葉が聞こえないのでも理解出来ないのでもありません。自分中心が言葉を通じなくさせているのです。

 聖霊が下った時(使徒2章)、全世界の言葉が通じだしました。私の罪が示され、神様の赦しと愛の中に置かれていることを知らされる時、互いの言葉は通じ合うのです。誇りでなく、この赦しと愛に生きていますか。

                             富里教会 牧師  内田 汎

2007年富里教会クリスマスの案内

2007年富里教会クリスマスの案内

クリスマス礼拝祝会

12月23日(日)朝10時~11時30分 説教「救い主を拝みに行く」 聖書マタイによる福音書2章1-12節 礼拝式が終わった後祝会(昼食会)を行います。会費200円。皆様ご参加ください。

クリスマス・イヴ キャンドル・サーヴィス(燭火礼拝)

12月24日(月・祝)夕6時30分~8時 富里合唱団「たんぽぽ」と共催して、クリスマスにちなむ聖書を読み、讃美歌を歌いま。その後紅茶を飲みクッキー・軽食を食べて歓談の時を持ちます。皆様ぜひご参加ください。

クリスマス案内

2007年富里教会クリスマス案内

12月23日(日) 10:00-11:30 クリスマス礼拝 説教「救い主を拝みに行くー不安と喜び」

12月24日(月・祝) 18:30-20:00 クリスマス・イヴ キャンドル・サーヴィス(燭火礼拝) ショートメッセージ「愛に生きる」 合唱団「たんぽぽ」と共催してクリスマスにちなむ聖書を読み、讃美歌を歌います。

是非お出かけください。

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