説教・行事

2007/5/27 日曜日

私たちに与えられる神の導き

説教から一言 「私たちに与えられる神の導き」                        

使徒言行録2:1-13

 ペンテコステは「第50」の意味で、イースターから数えて50日目、イエス様を信じる信仰者の群に聖霊が下り、教会が誕生したことを記念する日です。この日、「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ…炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに止
まり…霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した」のでした。
聖霊はいつの間にか下ったのでなく、誰の耳にも、目にも明らかな
仕方で信じる者のうえに下り、教会が誕生したのです。
私たちは毎週使徒信条で「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会…」
と告白しています。聖霊の導きは空中を飛んでくるもではなく、山に
一人こもって与えられるものでもありません。教会で働き、ペンテコ
ステ以来教会は聖霊の宮となりました。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられ
る。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうす
れば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を
たたく者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える
父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親
がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良
い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与
えてくださる。」(ルカ11:9-13)
同じ言葉がマタイによる福音書にもありますが、ルカはよいものの
中身を聖霊の導きと言います。様々なよいものを天の父なる神様は下
さいますが、私たちを内側から励ましてくださる聖霊の導き以上のよ
いものがあるでしょうか。

富里教会牧師 内田 汎

2007/5/20 日曜日

説教から一言 「私の愛する子」

マルコ1:9-11

イエス様は公の生涯に入る前にヨハネからバプテスマを受けました。

イエス様はヨハネの活動を高く評価され(マタイ11・11)、ご自分が
洗礼を 受けることでヨハネの運動を承認されたのでしょう。
ナザレで育たれたイエス様にとって公の生涯に入られる区切りの時、
神様からの任職の時でもあったことでしょう。
しかし最大の理由は、イエス様が罪人の立場に立たれたことでした。
なぜ神の独り子が馬小屋に誕生し、罪なき御子が十字架にかかられたの
か、これらはみな同じ理由からです。イエス様の洗礼は私達のためでし
た。

すると天が裂けて聖霊が鳩のように下り、「あなたは私の愛する子」
と御声がありました。
イエス様の洗礼を神様が承認してくださったのです。
畏れ多い事ですが、私たちが洗礼(古い私が死んでキリストにある新し
い生命に生きること) を受けることで、イエス様の上に起ったことが私
たちの上にも起るのです
洗礼は私の決心だけではありません。神様がわたしの決断を承認して
くださっているのです。そうでなければ自分の独りよがりです。
自分を卑下しても、愛想をつかしても、神様は「あなたは私の愛する
子」と言って下さっているのです。

富里教会牧師 内田汎

2007/5/13 日曜日

救いにふさわしい備えをする

マルコ1:1-8

準備のないところに実りを期待することは出来ません。イエス様
の救いのために準備をしたのが、バプテスマのヨハネです。

ヨハネは、火を吐く勢いで叫びました。「悔い改めよ」と。
救いのためにはさまざまな準備があります。キリスト教と科学の
関係、聖書についての知識や奇跡の理解、それらもないがしろには
出来ませんが最大で不可欠の準備が罪の問題です。知識ではなく良
心の問題です。
あなたの生き方は本当にそれでいいのか、ごまかしはないのかと
問われることです。罪の自覚のないところに罪の赦しの福音、本当
の生き方はありえないからです。

ヨハネは更に言いました。「わたしの後から来る方は…聖霊で洗
礼をお授けになる」
自分の間違いがわかるだけでは駄目なのです。ではどう生きたら
よいかそれが分からないからです。ヨハネはイエス様を指し示しま
す。イエス様を信じることは聖霊の導きですが、イエス様を信じる
ことでどう生きたらよいか聖霊の導きをいただけます。

罪を認めイエス様を信じて生きる、ヨハネはこれを指し示しました。

2007年5月13日
富里教会牧師 内田 汎

2007/5/6 日曜日

説教から一言 「感謝を見つける生活」 

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16-22節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスに於いて、神があなたがたに望んでおられるこ
とです」

毎日、感謝に満ちた生活を送れればどんなに幸いなことでしょう。不平や
愚痴、恨みに満ちた生活より、感謝して毎日が送れればこれに勝る幸いはありません。
「感謝せよ」と言います。感謝を自覚的にせよというのです。感謝は出来るか
らするのでなく、見つけてでもそうせよというのです。
聖書は暗く、つらい現実を知らないのではありません。それに目をつぶって
感謝せよというのでもありません。それが分かった上で「感謝せよ」というのは、現実を超えるものを見ているからなのです。

「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っても、いても、主ともに生きるようになるためなのです」

私たちの人生がこの神様の支配の下にあるからなのです。感謝することは、
神様のお心なのです。また感謝は救いを確認することなのです。
これは喜ぶこと、祈ることでも同様です。

2007年5月6日
富里教会牧師 内田 汎



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