説教・行事

2007/6/24 日曜日

説教から一言「愛し支えあって生きる私たち」

創世記 2・4-25

「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命
の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2・7)

大変素朴な表現ですが、人とは何かが言い尽されています。人の素材は
土ですが、神様との交わりによって人として生きます。動物にはこの交わ
りがありません。これが人と動物の違いです。

命は私たちの手の内にはなく、神様の御手の中にあります。生まれたく
て生まれたのではなく、生き続けたくても生きられるものではないのです。
人は、心臓が動き呼吸をしていれば生きていると言われるものではありま
せん。動物とは違うのです。愛し愛され、支えられてそれに応える。この
ような人格的な交わりによって人は、初めて、生きていると言えます。神
様は人をそのように造られたのです。

神様は男から女を造られ、二人は出会って喜び、一体となります。神様
は目に見えません。その声を耳で聞くこともできません。神様と私たちの
関係を、私たちは二人の関係の中で映しだしていくのです。これが聖書の
本来の結婚です。罪によってこの関係は損なわれましたが、キリストの罪
の赦しと愛によって私たちに新たに差し出されました。創造の秩序は、人
の罪の故に十字架の恩寵の秩序によって完成するのです。

2007年6月24日
富里教会牧師内田汎

2007/6/17 日曜日

説教から一言 「招きにこたえる」

マルコ 1・16ー20

のしかかるような神様の愛の支配が、イエス様によってもたらされた
のです。このことは、聞きおくだけでは自分のものとはなりません。何
事でもそうですが、語られたとおりに一歩を踏みだして、初めて自分の
ものになります。四人の弟子の召命は、その実例です。

その際、何か特別なことをしてイエス様に従うのではありません。漁
師が網を打つ。当然のことです。そこでイエス様に従うのです。何か特
別なところで従うのではなく、商人があきないをし、主婦が家事をし、
母親が育児をする。そこで主に従うのです。
そこは何の変哲もない毎日です。しかしまた多くの涙、苛立ち、失敗
のある毎日です。ここで神様の愛の支配に身を委ねるのです。

もう一つ大切なことは、一度「網」を捨てることです。イエス様に出
会うまでは生きてきたと思っていました。持っていたと思っていました。
しかし、実は託されていたのです。仕事も家庭も自分の人生も。信仰を
もつとは、自分の持っていたと思うものを改めて人生の主から托されて
いることに気付くことですこの切り替えがどうしても必要です。
私たちの信仰がはっきりしないのは、これがはっきりしていないから
かも知れません。

富里教会 牧師 内田 汎

2007/6/10 日曜日

私たちをおおっている神の愛

 説教から一言「私たちをおおっている神の愛」  
                                 マルコ 1・14-15

         
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」イエス様
の第一声です。

 神様の定められた決定的な「その時」が来たのです。「神の国」とは、場所よりむしろ支配です。「近づく」とは、遠くからだんだん近づくのではなく、ここに、のしかかるように来ていることです。
 神様が人を救うために定められた時が来て、神様の愛の支配がここに来
ているということです。

 「悔い改める」とは、失敗した自分の過去を反省したり悔いることではありません。新しく生まれる(ヨハネ3:3)ことです。自分の視野と才覚だけ で生きていた者が、神様の方向にむかって生きること、自分中心から神中心に生き方が変わることです。
 ヨハネは罪人への迫り来る神の怒りから悔い改めを説きました。イエス様は罪人への迫り来た愛から悔い改めを説きます。

 天道是か否か。生まれながらの体のハンディや突然のアクシデント。私たちは時として、ぞっとするような人生の深みを覗きます。その際、苦しみや悲しみを、暗黒や罰からでなく、愛の支配の中で見なおしていますか。のしかかるような神様の愛の支配が、イエス様によってもたらされたのです。        このことは、聞きおくだけでは自分のものとはなりません。何事でもそうですが、語られたとおりに一歩を踏みだして、初めて自分のものになります。四人の弟子の召命は、その実例です。

                             富里教会 牧師 内田 汎

2007/6/3 日曜日

説教から一言「誘惑をしりぞける」

                           マルコ福音書 1:12-13

イエス様は洗礼を受けるとすぐ、四十日間荒れ野でサタンの誘惑を受
けられました。なにをなし、何を語ることが福音なのか、福音宣教に先
立ってそれを探られたのでしょう。これは違うという否定の形で解答を
得られました。

第一は「神の子ならこれらの石をパンになるように命じたらどうだ」
というパンを与える誘惑です。肉体をもつ私達はパンがなければ生きら
れませんが、パンさえあれば人として生きられるものでもありません。
第二は「神の子なら(神殿の屋根から)飛び降りたらどうか」という
奇跡への誘惑です。あっと驚ろかすような救いや、神様との信頼関係を、
奇跡をもって証明するような救いではないのです。
第三は「もしひれふして拝むならこれ(世の富)をみな与えよう」と
いう世と妥協する誘惑です。目的は手段を正当化しないのです。
人の救いのために、パンと奇跡と妥協は効果的ですが一時的です。経
済的、宗教的、政治的救いは、派手ですが上辺だけです。

私たちの住む世界も荒れ野であり、野獣が住む世界です。そこでイエ
ス様が神様の御心を確認されたことは私たちにとって大きな慰めと励ま
しです。
世の中にうまい話などありません。苦労さえすればいいと言うのでは
ありませんが、本当のことは苦労なしにはできません。つらくはあって
も神様を真実神とあがめ服してゆく。イエス様の与えてくださる救い、
それに従う私達の歩み、それは十字架の道以外にありません。

富里教会 牧師  内田 汎



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