説教・行事

2007/7/29 日曜日

人生の基本姿勢

説教から一言「人生の基本姿勢」           
                                 詩編 1篇1ー6節 
 詩編第1篇は150ある詩編の序言として置かれています。この詩編に、全詩編の指し示す真理が簡潔・明確に示されています。

 その真理とは「人生にはいろいろな道があるように見えるが、究極的には
二つの道しかない。正しい道と悪い道、神に従う道と神に背く道である。そして神に従う道を常に選びとってゆくことが、人生の基本姿勢であり幸福な人生を歩むことになる」と言うのです。
 詩人は特に若い人たちに対して「悪魔の誘いは巧妙であり、人の心のすき
をついて次第に罪の深みへと人を引きずり込もうとするので、主の教えを昼も夜も口ずさむことが大切である」と説きます。

 ところで、神に従う道を歩もうとしても、挫折してしまう自分の弱さの問題が残ります。イエス・キリストはこの問題を解決するためにこの世に来られました。                                                イエス・キリストを救い主と信じる時に、主イエスのお力によって、私たちは自分の弱さに打ち勝つことが出来ます。

                      富里教会 協力牧師  島津虔一 牧師

2007/7/22 日曜日

あなたはどこにいるのか

説教から一言「あなたはどこにいるのか」         創世記 3・1ー24 
 人は、食べて、着て、住む処があれば生きられるものでありません。愛し
愛され、知り知られる人格的な交わりの中で、初めて、人として生きられま
す。  
 この交わりを破壊するのが、悪であり罪です。(これを修復するのが愛で
あり赦しです。なぜ他の宗教が上辺のことばかり問題にして、この罪と赦し
を説かないのか不思議でなりません)

 創世記三章は、私たちの内に巣食う罪のはじめを語っています。へびはも
ちろん動物の蛇ではありません。音もなく心の隙間に入りこみ、いつのまに
か鎌首をもたげて甘言をささやく私たちの心の動きを言っています。 
人は信頼を裏切ることも出来ますが(動物は裏ぎれないのです)、裏切ら
ないで生きることも出来ます。初めの人が誘惑に負けて罪に染まりました。
以来、人に赤い血が流れているように罪が生来のものとなり、信じあえず、
利用しあい憎しみあって、不安と孤独に生きる者となったのです。

 聖書はなぜ「原罪」を語るのでしょうか。それは「だれもが自分には罪が
ないと言い逃れが出来ないため、そしてまた、だれもが神の遣わされたキ リストの赦しにあずかるため」なのです。

                          富里教会 牧師  内田 汎 牧師

2007/7/15 日曜日

完全な救い

説教から一言「完全な救い」               マルコ 1・40ー45 
 病気は辛いものです。病気そのものの辛さに加えて、経済的な問題、社
会からの孤立、周りの者への気がね、理由をあげたら切りがありません。 
しかしそれらの辛さも「重い皮膚病」(ハンセン病)には比べることも
出来ません。それらに加えて痛みを分かちあう家族から引き離され、神様
からも「打たれた者」(イザヤ53:4)と考えられてきたのですから。

 彼は主イエスのもとにきて「御心ならば私を清くすることがお出来にな
ります」と訴え、イエス様も「よろしい、清くなれ」と重い皮膚病を清め
られました。
 重い皮膚病(ハンセン病)の者は、肉体が清められたことだけをイエス
様の救いとはとらえていなかったはずです。彼が知ったのは、病気も含め
て、彼の人生が丸ごと神様によって受け入れられたということでした。「神
様の愛の支配がここにある」という祝福の中で生きて良いと言う事。そして、
それこそが救いなのです。

 イエス様は「誰にも何も話さないように」と彼に釘を刺されます。イエ
スの癒しが伝えられますと、病気がつらいだけに、病気の癒しだけがひと
り歩きしてしまいます。イエス様の全人の救いを、薬屋や家政婦の働きに
矮小化してはいけないのです。

                                                                               富里教会牧師 内田 汎

2007/7/8 日曜日

働きを支える見えない土台

説教から一言 「働きを支える見えない土台」 
                               マルコ 1・29ー39 

 イエス様はシモンの姑の熱病を癒されました。この癒しをマタイは「
彼(主の僕ーイエス様)はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病いを
担った。」(イザヤ53章)のお言葉の実現と記しています。
 私たちは病人に出会うと戸惑い、どうしてそうなったのかを問いただし
ます。その原因を詮索し、それがわかると安心してしまいます。しかし当
人にとってはそこからが恐れと孤独のともなう病気との戦いなのです。
 私たちが病むとき、自分だけの戦いではなく、イエス様も私たちの病い
を担って下さっていることを知っているでしょうか。イエス様に担われて
いる中で病気と関わるのです。

 その日イエス様は大変な一日でした。私たちの一日の数え方からすれば
安息日の朝会堂で教え、汚れた霊を追いだし、ペトロの姑の熱病を癒し、
安息日の終わった日没後、町中の人がペトロの家に集まり、癒しの業をさ
れたのでした。そして翌日、朝早く人里離れたところで祈られたのでした。
 イエス様は生涯の岐路で祈られます。また毎日の生活でも祈られます。
祈って御心を聞き、歩みを調えられたのでした。            
私たちも自分の隠れた祭壇を築きます。私たちはイエス様以上に神様の
御心を知っているはずはないのですから。
                             日本基督教団富里教会
                                   内田 汎 牧師

2007/7/1 日曜日

権威ある方

説教から一言 「権威ある者」             マルコ 1・21ー28 

 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威あ  
る者としてお教えになったからである」

 律法学者は人々の律法を教える者で、物知りです。しかしいくら知識が
あっても、知識の切り売りは人生の問題で人を打つ権威はありません。 
イエス様は言行が一致しておられました。そのお言葉は口先だけでな存        在をかけたお言葉です。人を救うためその生涯を十字架に投げ出し、人
を愛し、受け入れ、救わないではおかない言葉なのです。

 そのことを、そこにいた男から汚れた霊(悪霊と同じ)を追いだすことで        明らかにされました。
 当時は、精神疾患も白内障も脳溢血もみな悪霊の業と考えられていま        した。勿論今は違います。しかし、どんなに医学が発達してその仕組みが       分かって治療できるようになっても、人間を越えて人間に悪を及ぼす働き       はあるのです(エフエソ 2:1-3)。                                        イエス様は十字架に 生涯をかけたお言葉によって悪霊の根を断ち切ら            れたのです。                                             私たちは弱いのです。一つの苦しみには立ち向かえても、二つ三つと苦
しみが続くと、思わずお祓いをしたくなります。しかし、私たちにはこの主        がいるのです。私たちはこの主の支配のもとに入れられているのです。
(コロサイ1:13)

                             富里教会 牧師  内田 汎



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