説教・行事

2007/8/26 日曜日

あなたの兄弟はどこにいるのか

説教から一言「あなたの兄弟はどこにいるのか」 
                                  創世記 4・1ー16   
                                                     
            
 人が罪に毒されてのはじめの悲劇は、カインの弟殺しでした。
 なぜアベルの捧げ物が神様に受け入れられカインの物が受け入れられなったのか、理由は解りません。人生には理由の解らないことはいくらでもあるのです。カインは罪を治めなければなりませんでしたが、罪に身を委ねて
しまったのでした。

 兄弟の間には他人の入れない喜びがあります(詩133篇)。しかしまた、兄
弟の間にしかないみにくさもあります(ヤコブとエサウ、ヨセフと10人の異母兄の間がそうです)。

 神様は「おまえの兄弟アベルはどこにいるのか」と問われます。この問い
は、カインの罪を問いただすものでもありますが、同時に兄弟を捜すことを
求める神様の呼び掛けでもあります。「私は弟の番人でしょうか」と開きり、
不安と動揺の地に住む私たちに、神様はイエス様によって私たちの番(隣
人)となってくださいました。

 私たちは切っても切れない関係の中で生きています。ですから私に少しの
配慮や優しさがあればその関係はもっと麗しく深い関係になり、少しの理解
やいたわりがないと、他人以上に傷つけあう関係になるのです。             

                             富里教会 内田 汎 牧師

2007/8/19 日曜日

断食ではなく婚礼

説教から一言「教会の教えは断食ではなく婚礼」 
                                 マルコ 2・18ー22   
                                                     
                       
 「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのになぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。イエスは言われた『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。…』」 
                               
 断食は、犯した罪を悲しむことを食を断つことで表す行為です。それは信
仰深い行為であるだけに偽善が入りこみます。だから私の教えは断食ではないというのではありません。本当の断食をする人だっているのです。
 断食で代表される罪を見据えない人は浅薄です。苦しみ、悲しみ、痛みか
ら、文学でも芸術でも奥深いものになります。人間の本質を見据えているか
らです。楽しいこと、美しいことばかりが人生の価値ではないのです。

 それでもイエス様は、断食ではなく婚礼とその教えの本質を語ります。  
神様は生きておられます。イエス様によって私たちをありのまま受け入れて
下さり(婚礼の時相手をそうするのです)、一緒に歩んでくださいます。私たちは一人ではないのです。自分の負の部分を見据えることも大切ですが、
それ以上に神に結ばれていることを喜びます。 

 この喜びの福音をどこで受けとめていますか。「新しい葡萄酒」を、上辺
を変えることではなく「新しい皮袋」に入れていますか。                                                                          

                              富里教会牧師 内田 汎

2007/8/12 日曜日

私たちも医者を必要とする

説教から一言「私たちも医者を必要とする」   

                                 マルコ 2・13ー17          

「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは
正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2・17)                                  

 レビ(又の名はマタイ)は、旧約聖書を縦横に引用したマタイによる福音書の元を書いたと言われ、その名が示すようにユダヤ教の厳格な家風や小さ
い時の教育がしのばれます。そのレビが、どこでどう間違えたのか、徴税人
になったのです。                       
 徴税人は本当はいい人なのに社会の偏見から差別されている人ではありません。自他共に罪人であることを知っているのです。彼はうそぶき開き直って収税所にいたのです。イエス様は、それは本当の生き方ではない、私に従て来なさいと招かれ、彼は従いました。           
 
 ファリサイ派の律法学者は信仰に立つ人でした。皆が神様のお心を無視して平気で罪に流されるとき、彼らはなんとか信仰に立とうと真剣に努力したのでした。ところが、危機のときにはそれでいいのですが、平穏時になるとそこから、いつの間にかそのよい行為によって人を裁いてしまうのでした。
 又、その生き様を人々が賞賛しますので、いつの間にか人の目を意識する行いになってしまったのです。自分がよい行いをしていると思っているので、自分にも愛と赦しが必要だという思えなくなってしまうのです。 
                                      

 イエス様は、だからおまえは駄目だ、おまえは傲慢だとは言われません。
イエス様はそんな私たちのために来て下さいました(ルカ 23:34)。
 このイエス様に出会っていますか。                                       

富里教会 内田 汎 牧師

2007/8/5 日曜日

関係の快復

説教から一言「関係の回復」      
                                  マルコ 2・1ー12          
 中風の者に対してイエス様は「子よ、あなたの罪は赦される」(口語訳では瞬間的動作を表わす用法で「赦された」と訳しその方が解り易い)と宣言されました。罪を赦せるのは神様以外にありません。そして、イエス様が罪を赦す力と権威を持つ方であることの証明として、中風の者を癒されたのでした。                                                    中風が治らないでいいのではありません。治るものなら治さなければなりません。私たちは決して病気に負けてはいけないのです。
 しかし、病気さえ治れば、それで生きる問題の一切が解決されたのではありません。家族のこと、子供のこと、経済的な問題、人との行き違い、将来のこと、やがて迎える死、人の問題は病気だけではないのです。  
                                 
 罪の赦しとは、神様との再結合です。(宗教と言う言葉はもともと再結合と言う意味です)神様と無縁に生き、むしろ敵対して生きていた者が、罪赦されてもう一度神様と結び合わされます。神様が味方であり、赦しと愛を信じて生きることが出来るようにされることです。

 イエス様から「あなたの罪は赦された」の宣言を聞いていますか。自分のした罪と失敗の虜(トリコ)から解放されていますか。神様が味方になって くださっているのが腹に入っていますか。

                             富里教会 内田 汎 牧師
 



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