説教・行事

2007/9/30 日曜日

全世界を支配される神

 説教から一言「全世界を支配される神」                
                                                             詩編 2章1ー12節
           
 詩編第2篇は「王の詩編」の一つです。新しい王の即位式の時などに歌われました。この詩には現実の王の模範とすべき理想的な王・救世主の姿が描かれています。この王は武力や富の力を背景に立つのではなく、全世界を支配される神の御旨を実行する王です。
 神の民イスラエルは、国が滅び、現実の王がいなくなってからも、神はいつかこのような理想的な王を救世主としてお与えになることを期待して、祈り続けました。

初代教会のキリスト者たちは、イエス・キリストこそこの詩編2編に歌われた王の実現であると信じました。
ヘンデルの作曲した「メサイヤ」(救世主)では、ハレルヤ・コーラス(第44曲)の直前の第40曲~43曲に詩編2篇が歌われています。まさに救世主を指し示す詩として位置付けられています。

 今なお混乱を続ける世界情勢の中でも、私たちはイエス・キリストの父なる神が全世界を支配しておられることを確信して、すべての事態に冷静に対処する者でありたいと思います。

                          富里教会協力牧師 島津 虔一

  

2007/9/23 日曜日

神とともに歩む

  

説教から一言 「神と共に歩む」       
                                  創世記 5・1ー32            
                                                             
 創世記5章にはアダムからノアまでの十世代の系図が記されています。真面目に聖書と取り組もうとする者にとって、この系図は戸惑いです。一番短命なエノクでも365年生き、メトシェラにいたっては969年生きたというのですから。
この記事を私たちの理屈に合わせようとするのではなく、このような表現で聖書が何を言おうとするかを聞くことが大切です。

 この記事は人の死を語ります。人はどんなに長く生きても死ぬのです。人に罪が入った結果(3章)、罪は形をとり(4章)、人は死ぬものとなりました。まるで墓標のように面々と人の死が記されています(5章)。
 人は「子をもうけ、生き、死ぬ」のです。人生に様々なことがあっても、不要な部分を削ぎとると、結局人には「子をもうけ、生き、死ぬ」しか残らないのです。 ここに冷徹なまでの聖書の人への評価があります。先ず私たちはこのことを心する必要があります。今思い悩んでいることが死の前に耐えられますか。

 「墓標」の中に光ったものがあります。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」です。神と共なる人生は光ります。人は神(永遠なるもの)に結びついて初めて人として生きられます。
エノクが神と共に歩めたのは幸いでした。しかし新約聖書は宣言します、「神が我々と共におられる」と。これが福音です。

                                                        富里教会 牧師 内田 汎

          

2007/9/16 日曜日

呼び寄せられた者

 説教から一言「呼び寄せられた者」         
                                 マルコ 3・7ー19

 「イエスは…これと思う人々を呼び寄せられ…十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

 イエス様の命を狙う者もいましたし、逆にイエス様をしたい、中には持ちあげる人も(ヨハネ6:15)いました。正しくその教えを受けとめる群れを作るため、十二人を任命されました。
 弟子(信仰者)とは、何よりイエス様によって呼び寄せられた者です。イエス様に従うには様々なきっかけがあります。しかし本当の原因は神様の選びにあります(エフエソ 1:3-6)。もし自分の熱心だけだとすれば、私達の信仰はなんと危ういことでしょう。私の努力の終わりが信仰の終わりとなるからです。
 その目的は何より「自分(イエス様)のそばに置くため」でした。私たちの迷いは、神様のいますことがわからなくなるところからきます。福音とは、神様(イエス様)が共にいますことです。これは私たちの願い以上に、イエス様が求めておられることなのです。
 さらにイエス様によって始まった神様の愛の支配を言葉(宣教)によって、行ない(悪霊を追い出す権能)において明らかにするためなのです。

                              富里教会牧師  内田 汎
                       

2007/9/9 日曜日

愛と義の関係

説教から一言「義と愛の関係」               
                                   マルコ 3・1ー6
 「安息日に律法で許されているのは善を行なうことか悪を行なうことか、命を救うことか殺すことか。」  
                 
 律法を形式的に守ることは無意味なこともあります。しかし形式的に守ることは、いくらでも自分を誤魔化せる私たちにとっては弁解の余地のない厳しい義の一つの姿です。一体筋を通さないで事はなるのでしょうか。 
 義に生きることは神様との関係に生きることですが、私たちは隣人との関係でも生きています。義しく生きると共に愛にも生きます。義と愛の関係は、私たちが生きる上でのギリギリのせめぎあいの問題です。

 愛のない義は人を生かしません。義を追求することが、いつのまにか人の間違いを追求することにつながり、人を殺します。また義の裏打ちのない愛や許しも人を生かしませんし、やがては人をだめにして殺します。
 マタイ福音書ではこの記事の後にイザヤ書の苦難の僕の預言(マタイ12:15、イザヤ42:1)を引用しています。愛するとは自分が傷つくことです。自分が傷つかずに愛を語ることは出来ません。義と愛の関係を、それによって命を狙われたイエス様が明らかにして下さいました。

日常生活での愛と義の行為、それはその都度イエス様に聞いたらよいのです。  
                             富里教会 牧師 内田 汎 

2007/9/2 日曜日

リフレッシュの必要

説教から一言「リフレッシュの必要」      
                                 マルコ 2・23ー28     
                                                     
  「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではな    い。だから、人の子は安息日の主である」

 「安息日は人のために定められた」とは、誤解されやすい言葉です。人間
のために定められたのだから、人間の自由に守ったら良いというのではありません。十戒の安息日の戒めを、まるで安息日のために人があるように形式的に守るのではなく、安息日を真実に守ることが人を生かす、その意味で人のために定められたということなのです。

 私達は鉄の憲法を持っています。自分中心で、まず自分を第一にするいう憲法です。私達は様々に努力し工夫しますが、皆この憲法に従ってのことで、これがどれほど周りを毒していることでしょう。その反面、失敗のとりこに なり、開き直り、将来の不安におびえます。

 安息日を持たない事はなんと不幸なことでしょう。いつまでもだらだらと
働いて体の疲れはとれず、心は自分中心と高慢と不安から解放されません。 
 身も心もリフレッシュされ罪がただされ、不安が慰められる安息日を持っていますか。十字架と復活の主(人の子)こそ安息日の主なのです。

                               富里教会牧師 内田 汎



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