説教・行事

2007/10/28 日曜日

ノアの箱舟

説教から一言「ノアの箱舟」        
                        創世記 8・15ー22 

 「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている のをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ、… 言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。 人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。…』」(6・5ー7)

 人は神様も神様の罰も認めず、ただ人の目に写る恥だけを気にして生きています。しかし、不法は必ず罰せられます。悪は報いを受け、罪は返さなければならない「負い目」(マタイ6:10) なのです。これがはっきりしなければイエス様の十字架もはっきりしません。これがノアの洪水の語る第一の主題です。

 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼 いときから悪いのだ」(8・21)
 洪水の後神様はこう決心されました。罪を罰しないのではありません。罪を罰する仕方でその義を現すことはしまいと決心されたのです。そしてついには、自ら(神の御子ご自身)が罪ある者のために十字架で代わって打たれることによって義を現すこととされたのです。これが福音です。

ノアの物語の主題は罪を罰することで神の義が現れることですが、隠れた主題は、罪を罰するのでなく自らを打つことで神の義を現すというイエス様を暗示していることです。

                     富里教会 内田 汎 牧師

2007/10/22 月曜日

しかし、勇気を出しなさい

しかし、勇気を出しなさい」      
            ヨハネによる福音書 16・25ー33     
  
「あなたがたは、世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」

 生きている限り苦しみがついてきます。肉体は年とともに衰え、景気不景気の波は社会全体を覆います。例外はありません。生きる勇気が必要でない人は一人もいません。その勇気をどこから手に入れるのでしょうか。

苦しみが無くなることが信仰ではなく、それに勝たせるのが信仰です。それは、世に勝たれたイエス様が先導してくださり、その後についてゆく信仰です。
「チャンピオン」とは「その道の第一人者」という意味だけでなく、「ある人のために戦ったり議論する人」との意味があるそうです。(大江健三郎『チャンピオンの定義』)これはイエス様のしてくださったことに通じます。
世の中は、自分が一人で闘って勝つか負けるかでなく、チャンピオンがいるのです。皆に代わって罪と死を一身に十字架で引き受けて戦い、この世界に神様の愛の勝利を明らかにしてくださいました。
 このキリストの後に従うことは臆病な人のすることではなく、だれにでもある弱さをもつ者を奮い立たせる勇気なのです。

                   富里教会 牧師 内田汎

2007/10/15 月曜日

神の赦しと愛に立つ

 説教から一言「神の赦しと愛に生きる」         
                      マルコ 3・13ー19

 十二弟子の中にイエス様を裏切ったユダがいます。イエス様は間違って選んだのではありませんし、決して裏切らない者だけを選んだのではありません。ユダの問題は、私の問題なのです。

 他の弟子達もイエス様を見捨ててゲッセマネの闇に逃げ去り、ペトロは神かけてイエス様を否定しました。程度の差こそあれユダも他の弟子達もイエス様を裏切ったことは同じで、後でそれを悔やんだことも同じです。  弟子達がイエス様を見捨てても、イエス様が弟子達を捨てたのではありません。ペトロは惨めな姿をそのままイエス様の前にさらし、ユダは一見潔く失敗を自分で処理しました。ペトロとユダの差は紙一重です。主の赦しに生きるか、自分の心のままに生きるかです。自分でも自分を裁かず、(1コリント4:1-4)、主の赦しの恵みにしたたかに生きる、これが信仰者です。
                          
〈深津文雄〉「悲しみを通らない喜びはやがて悲しみに終わる、しかし悲しみを通った喜びは再び悲しみに変わることはない。病むまでの健康でなく病みぬいた健康、失敗するまでの成功でなく失敗を克服した成功、汚れるまでの清さでなく汚れから立ち上がる清さを私達は主から求めよう。主は喜んで世の罪を担い、苦しみを受け、一度黄泉に下り、そこから甦られのだから」
                   富里教会牧師 内田汎

2007/10/2 火曜日

救いを担う群れ

説教から一言「救いを担う群れ」            
                     マルコ 3・13ー19

 主イエスは十二人の一人ひとりを呼んで、皆の前に立たせ、弟子とされました。

 世に学者がいないではありません。人生経験の豊かな人、社会的地位の高い人がいないのではありません。しかし選ばれた12人は、目に一つの文字もない漁師であり、いわくつきの徴税人であり、無名の人でした。伝道したり、社会への効果を考えると、もっと力のある、だれが見ても納得できる人がいてもよいはずです。
 無きに等しいものが選ばれたのは、自分の力で支える必要のない、支えようにも支えられない無力な者、しかしそういう人を生かし支える福音がむきだしで明らかになるためなのです(Ⅰコリント 1:26以下)。

 12弟子は、神様の救いを担う「新しいイスラエル」として選ばれました。担う中身は一緒でも、担い方は違います。
 イエス様はありのままの私をそのまま赦して受け入れて下さいました。そりの合わない隣人も受け入れられているのです。その赦しと愛に生きて、私も違いや誤解や感情的なもつれを乗り越えていきます。教会でそれをします。                    
教会で整えられて、福音を担って家庭や周りへと出ていくのです。

                                                富里教会 内田 汎 牧師
 



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