説教・行事

2007/12/31 月曜日

希望に生きる

「希望に生きる」                
                      ルカ福音書 2:22-38

 シメオンとアンナはエルサレムの神殿の庭で、みどり児イエスを拝し、神を讃美する光栄を得ました。二人に共通することは、大変な高齢に達するまで篤い信仰を貫き通してきたということです。このことは、二人とも常に「信仰による希望に生きてきた人」であるということができます。

 希望は苦難の状況にある人に力を与えます。しかし人の希望は途中で失われたり、空しくなってしまうこともあります。
 しかし、いえる・キリストを救い主と確信し、主がいつも共にいて下さることを信じる信仰による希望は、けして空しくなることはありません。それはわたし達がどんな困難な状況に陥ったときでも、たとえ死の床にあるときでさえも、主イエスが「あなたがには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と励ましてましてくださるからです。

 この信仰による希望をもって新しい年を歩みましょう。

                  富里教会 協力牧師  島津虔一

2007/12/27 木曜日

愛に生きる(クリスマスに当たって)

「愛に生きる」            

                     マタイ 5:43-48

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」
 これはキリストの有名な山上の説教の1節です。しかしよく読んで見ればこれは実行不可能のように思います。愛せないから敵というのですが、その敵を愛せよと言われます。自分によくしてくれる人を愛し、そうでない人にはそれなりの対応をするのが私たちだからです。しかしそれでは私たちの周囲の関係はよくならず、悪の報酬の連鎖はなくなりません。

 自分は悪いことはしないし、人に迷惑をかけていない。それが生きる基本でしょうし、子供にもそれを教えます。しかしそれは生き方の半分です。義に生きると共に愛にも生きる必要があるのです。どうしたら皆と一緒の生きられるかにはいつも二つの面があるのです。
 キリストの言葉を受けて立ちたいと思います。このことばを家族から初めて私たちの周囲に持ち運べないでしょうか。

                   富里教会 牧師 内田汎

2007/12/26 水曜日

救い主を拝みに行く

「救い主を拝みに行く-不安と喜び」        

                                  マタイ 2:1-12

イエス様の誕生に対して二つの反応があります。

 「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」
 ヘロデ王の不安はわかります。新しい王の誕生は自分の立場を脅かします。エルサレムの住民の不安は、新しい王の誕生による政変や流血を恐れたのかもしれませんが、実はエルサレムの住民も私たちも皆小ヘロデなのです。一度手に入れたものは自由であれ権力であれ、地位や富も手離したくないのです。
 奪われるのではないかと言う不安は、神様を抜きに持とうとするからです。不安への最大の妙薬は、それを与えてくださった神様の愛のみ手にゆだねることなのです。

 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。…彼らはひれ伏して幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」
 学者たちは大変な旅をしてイエス様を礼拝にきました。星の導きでイエス様に出合い、大きな喜びにあふれて宝物を献げたのでした。自分が宝物を得たのはこのためであり、宝物は私蔵するのではなく捧げるため、自分の人生もそのためにあったことをはっきりさせけたのです。
 
 不安は失うまいとするのでなくゆだねることで平安になり、喜びは獲得する以上に得たものを献げることで与えられます。それはどれだけ周りの人が見えているかなのです。

                            富里教会 牧師 内田汎

2007/12/17 月曜日

神は我々と共にいます

「神は我らと共におられる」        

                                マタイ 1:18-25

 ヨセフにとっては青天の霹靂でした。婚約していたマリヤが身重となったのです。何日も眠れぬ夜を過ごし、怒り、煩悶したに違いありません。これはマリヤとても同じです。律法に従えば公にしてその結果石打の刑にすることですが、ヨセフにはそれは出来ませんので、密かに婚約を解消しようとしました。
 「このように考えていると主の天使が表われて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずに妻マリヤを迎え入れなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリヤは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
 ある人は、これは神様がヨセフに頼んだ言葉だと言います。縁を切ってはいけない。妻として迎え、生まれてくる子を自分の子として迎えて欲しいと。
 二人は神様の言葉に従って、ベツレヘムで宿屋を探し、生まれた子をイエスと名付け、ヘロデの殺害を知るとエジプトに下り、ベツレヘムに住みました。黙々と神様のお心に従って、それによって神様の業が起ったのです。イエス様によって「神は我々と共におられる」ことがはっきりしました。
 救いは神様がただ存在するだけでなく、共におられる。世の終わりまで共にいてくださることがはっきりすることです。その際、ただ共にいてくださるのではありません。罪を犯した者を、イエス様を代わりに罰することで赦し、それで神様が共にいてくださるのです。わたしが神様と共に人生を歩くことが信仰のように思いますが、神様の方が共に歩んでくださると決意してくださったのです。ここに聖書の徹底した救いがあります。

                              富里教会牧師 内田汎

2007/12/10 月曜日

ここに希望がある

救いの歴史」               
                                 マタイ 1:1-17

 聖書の冒頭は系図から始まっています。系図は、系図を書くことでそれまでの歴史を表しますから、アブラハムから始まるイスラエルの歴史を表しています(参・歴代誌)。この系図は三つに区分され、7の倍数にこだわって14代づつに分けられていますが、実数ではありません。

 初めのアブラハムからダビデまでは、アブラハムから始まるイスラエルの民が、家族から民族に成長し、紆余曲折はあるものの国を造り上げてダビデでその頂点を極めるまでの様子が記され、創世記12章からサムエル記までの内容です。
 二番目のダビデからエコンヤまでは、国が二つに分裂し、兄弟国の北イスラエル王国はアッシリヤに、南ユダヤ王国はバビロンに滅ぼされるまでの様子、列王記の内容が記されています。
 三番目のエコンヤからヨセフまでは、歴史の表面から地下に潜った様子を表し、聖書にもほとんど記述がありません。

 しかもこの系図には、普通なら決して明らかにしたくない4人の婦人の名が記されています。 

 この系図は、人類のそして私の人生です。栄枯盛衰とその間にちりばめられた罪と恥の数々。そこにイエス様はお生まれ下さいました。神様が共にいてくださるしるしとして。ここに希望があります。

                              富里教会牧師  内田 汎

2007/12/2 日曜日

来るべき方あなたですか

「来るべき方はあなたですか」 
マタイ 11:2-15

マケラスの牢屋に入れられていたヨハネは弟子達からイエス様の様子を聞いていました。その報告を聞き続けているうちにイエス様への根本的な問いが湧き、イエス様のもとに使いを送りました。「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」と。死人は生き返ってもやがて死ね。長血を患っていた女が癒されることは女にとっては喜びでも、この悪と暴力の世界は改善されない。イエス様の救いとはそんなものだったのですかと。

「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と、イエス様が行い、ヨハネがすでに報告を受けていたことをもう一度語れと言われました。目の見えない人は見え、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされていることは、イザヤの預言(35:5以下)の預言に実現で、神の大いなる救いの時の始まりなのだと言われるのです。
ヨハネはヘロデの悪を糾弾して収監されました。それが私たちの現実なのです。ヨハネの働きを高く評価されるイエス様がヨハネを救出に行けばいいのですが、そうしません。イエス様なら人びとを動員して出来ないはずはありませんが、それをしません。

病いと貧しさの前で、あっと驚くような救いを求めたくなります。悪が跋扈する世界で愛は無力のように見えます。愛によってやっと築いたとしても力の前にたちまち崩されてもとの木阿弥になってように見えます。
しかし十字架によって明らかにされる神の愛の支配、赦しと愛が実行されることこそが救いなのです。社会全体、十把一絡げの救いで葉なく、一人ひとりがしっかり受け止められ、自分の尊さがわかって生きられることが救いなのです。イエス様によって大いなる救いが始まりだしたのです。

富里教会牧師 内田 汎



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