説教・行事

2008/1/27 日曜日

信仰の決断

「行く先を知らないで」            創世記 12・1ー9 

「あなたは生れ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召しだされると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」
                           (ヘブライ11:8)                                
だれもが自分を知り自分も皆を知っている豊かな生れ故郷、そこに生活の基盤のある安定した父の家。そこを離れ、行く先を知らずに神様の示す地へ出ていったアブラハム。 そこには信仰の決断がありました。決断は信仰の冒険であり、信仰による勇気が必要です。行く先を知らないで出発しますが、神様のお言葉にかけて、導きを信じてのことでした。
 私たちは、アブラハムほどではないとしても、しばしば決断を迫られます。どの学校に入り、どこに就職し、誰と結婚するか、何もかもが分かってするのではありません。その際何を基準に決断するのでしょうか。信仰者は、アブラハムが見ていたように、この世を愛をもって支配する神様の導きを信じて決断します。(フブライ11:1-3)  
                                                 
 私たちの日常生活にはいつも大きな決断が必要ではありません。しかし小さな選択の中で、時々立ちどまって、神様の御心に応えること、神様のみ手を見て神と人とに愛し仕えることを訓練します。その積み重ねが、大きな決断につながるはずです。 

                      富里教会牧師 内田汎                                

        

2008/1/21 月曜日

まだ信じないのか

「嵐の中を進む」               マルコ 4・35ー41
                                  
舟は私たちの人生の象徴です。舟は事もなく進んでいくようですが、いつ沈んでもおかしくありません。舟は舟である限り絶対に安全ということはないのです。私たちは自分で漕いで目的地へ行こうとしますし、行ける時もありますが、いつも危険が隣り合わせです。私たちは何と身も心も壊れやすいことでしょう。                      
 しかも嵐は突然襲います。こちらがいくら注意していても、危険は向こうからやって来ます。必死で手立てをつくしても、手に余る嵐が舟を飲み込もうとするのです。                                                         

イエス様はともを枕に眠っておられます。イエス様にとっても嵐は嵐に違いありませんが、世界は神様の支配しておられるところで、嵐の背後にその支配を見て、身を委ねておられるのです。             
弟子の悲鳴に起き上がり、「黙れ、静まれ」と湖を叱られ、「まだ信じないのか」と言われます。
 
湖を舟で渡る私たちにとって嵐は、イエス様が一緒にいて下さることが明らかになる時です。私たちの信じているイエス様がどういうお方なのかが明らかになる時なのです。
「愛する神様、わたしを守ってください。海はあんなに広く、私の舟はこんなに小さいのですから」(ブルターニュの漁師の祈り) その舟にイエス様が乗っておられることがわかるときなのです。

                     富里教会 牧師 内田汎
 

2008/1/14 月曜日

焦らず、委ねよ

「育ちゆく生命の種」         
                        マルコ 4・21ー34

 「でも聞いてください。神様はいるのですよ。ただ存在するだけでなく、愛をもって支配しておられるのですよ。その証拠に十字架にかかり、甦られたのですよ」これを私たちは聞かされました。 
 
 これをどう聞くのでしょうか。初めから拒否するのか、少し心動かされはするもののそれに委ねないのか、他のものにもっと心動かされるのか、それともその言葉に委ねるかなのです。これはどう聞くかの問題です(4:1-20)。                                     
 この箇所は聞き方の問題ではなく、聞いた中身を語っています。私たちに伝えられた生命の言葉は、ともし火のようにどんなに隠してもあらわになり(21ー23)、更に増し加えられ(24ー25)、人の知らないうちに芽を出し、茎、穂を伸ばし、実を結ばせ(26ー29)、小さなからし種のような御言葉が、大きな野菜のように成長します(30ー32)。                                     

 私たちは何を聞いたのかに注意をする必要があります。御言葉をどう聞くかも問題ですが、何を聞いたのかも問題なのです。私のうちに何事かを起こさないではおかない生命の御言葉を聞いたのです。
 
 焦らず、いらだたず、生命の御言葉に自分を任せるのです。

                      富里教会牧師 内田汎

2008/1/6 日曜日

新年にあたって

 「神、我らと共にいます-そのもう一つの意味」          
                 マタイによる福音書 2:13-23

占星術の学者たちは、イエス様を礼拝するとヘロデ王のところへは寄らずに自分の国に帰りました。それを知ったヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺し、そこに深い悲しみが起りました。それは子を亡くしたラケルの悲しみ、かつてイスラエルがアッシリアによって奴隷とされた者の集合地ラマの叫びと同じです。

イエス様は危機一髪でエジプトに逃れ、そこに住み、ヘロデが亡くなった後も大事をとってマリヤの故郷、信仰の光の届かないナザレで成長されました。

マタイはイエス様とモーセ、男の子を殺し続けたファラオとヘロデ、イエス様によって起ったラマの悲劇とアッシリヤ(バビロン)の悲劇を重ね合わせて記します。

マタイは「神は我らと共にいます」の福音を記します。私たちが神様と共にいる以上に神様が私たちと共にいて下さり、世の終わりまで共にいて下さいます。(マタイ28:20)
しかしその私は過去を引きずっています。良いことだけでなく辛く悲しい、ユダヤの過去と同じ、できればやりなおしたいと思う歩みを引きずっています。私たちは自分の過去を忘れたりなかったものとしたりはできません。しかも自分の過去が清算されなければ新しい出発ができないことも知っています。イエス様が「共にいてくださる」とは、そんな私の過去をたどりなおし、踏み直してくださることであり、これが私たちが信じている主なのです。 

新年にあたってもう一度これを確認して出発したいと思います。

                    富里教会牧師 内田汎

 



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