説教・行事

2008/2/24 日曜日

頑張れなくなったとき

「信仰の中心点」          
                        創世記 15・1ー21 

 神様はアブラハムに子を与えるといわれます。彼も妻の体もその時はすでに枯れていました。神様は彼を天幕の外へ連れだして言われます。     
 「『天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる。』アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」
これが信仰です。自分の可能性を信じることは信仰ではありません。神様を神様と信じることです。

 私達は報酬の世界に住んでいます。自分が何をしたかで結果を刈り取る世界です。自力更正ですし、行為義認の世界です。聖書は違う世界を指し示しています。働きはなくても義(よし)とされる世界、信仰義認、恵の世界です。私が何をしたかで報われるのではなく、神様が私のために何をして下さったかを信じる世界です。自分は少しも手を貸さず、自分の知らないところで神様は御子を遣わして救いの業を全うして下さったその愛と赦しを信じて歩める恵の世界です。アブラハムはこれを明らかにしました。  

 そうでなければ、神様の愛を信じるだけでよいのでなければ、自分の可能性やしたことだけが問題になるのだとしたら、自分が良いことが出来なくなり、私たちから何もかもを奪う死を目の前にした時、一体どうしたらいいのでしょう。                    
                           富里教会 牧師 内田汎

2008/2/17 日曜日

恐れを信頼に

 「恐れるな、信ぜよ」        
                         マルコ 5・21ー43

 会堂長ヤイロは、危篤な娘を気遣ってじりじりしていました。折角イエス様が娘のところに向かって下さっていたのに、出血の止まらない女のことで時間をとられたのです。そして「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と聞かされます。死は私達から全てを奪います。人生の喜びも、一家の団欒も。人は死の前に無力なのです。

 「恐れることはない、ただ信じなさい」「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」 イエス様(聖書)にとって死は死ではなく、甦るための眠りなのです。この娘も私たち同様にやがて死にます。イエス様は甦りの先取りをされて娘と父を繋がれたのです。

 松原教会山田京二牧師は「私達が求めているのは死なないで生きることであるが(死んだら絶望)、福音が私達に伝えようとしているのは死んでも生きる(死を越えての望み)ことである」と言われます。

 「国籍は天にあり」と言い、「身体の甦りを信ず」と告白します。それは葬式の常套語ではありません。私たちは死を越えての望みに生きています。死は永遠の別れでも、無に帰することでも決してないのです。イエス様が十字架の死と甦りによって私達を天につないで下さったのです。

                                                   富里教会牧師 内田 汎
                       

2008/2/10 日曜日

信仰の成熟

「癒しから救いへ」             マルコ 5・21ー34

 十二年も出血が止まらない女が、群衆にまぎれこんでイエス様の衣にさわりました。衣にでもさわれば癒されると思ってのことです。そして事実癒されました。イエス様は人生の非常口です。
 聖書の信仰はここから始まります。病気が治って一切の問題が解決したのではありません。この女は病気が治って社会に復帰し、結婚だってするかもしれません。病気の時は早く治って生きたいと思うでしょうが、健康になったら一層のこと死んでしまいたいと思う問題にも出会うのです。

 恵みをいただいて、それでこと足れりとする信仰は脆弱です。倦怠と慣れはいつも私たちについて回ります。恵みは時と共に色あせ、感謝は感謝でなくなるからです。                                                           
 私たちは、愛し愛され、配慮し配慮される関係の中で毎日を生きています。信仰とは、神様とこの関係に入ることです。この関係を結ぶためにイエス様は女を捜されたのでした。

 女はイエス様の前にありのままを語って自分を投げ出し、イエス様も「安心して行きなさい」と語られます。目先のあの事この問題の解決だけでなく、その後の生涯を神様の愛と配慮の中で生きられるのです。                                                       

                      富里教会 牧師 内田 汎

2008/2/3 日曜日

揺さぶられよ

 「主人の交代」                マルコ 5・1ー20 

 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ『いと 高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほし い』イエスが『汚れた霊この人から出て行け』と言われたからである」 

 汚れた霊につかれ、墓場に住む男。これは私たちの象徴です。人との交わりに生きられず、他人を傷つけ、自分も傷ついて苦しむ。そこに救い主が来られると激しくこれを拒む。明らかに矛盾ですが、これが私たちの姿です。

 十字架と甦りの主は、私たちに近付いてこられます。イエス様と出会うことは恐ろしいことです。イエス様から自分に都合のよいところだけを摂取するのではなく、私が倒され、イエス様に組み敷かれる事だからです。これが救いで、これ以外ありません。自分のからが破られない救いなど、自分を超える問題、まして死の前には何の力もありません。      

 苦しい時イエス様に委ねる幸いを私たちは知っています。落ち込んだ時だけでなく、自我に固まった時も、「我が愛におれ、我に委ねよ、我に従え」と言われるイエス様に自分を明け渡し、整えられていくのです。

                       富里教会牧師 内田汎  
 
 



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