説教・行事

2008/3/30 日曜日

失敗してもいいのではありませんが

「エル・ロイ(顧みられる神)」                創世記 16・1ー16 

 約束のものを受けるのに必要なのは忍耐です(ヘブライ10:36)。ところがサラは待てませんでした。ここから悲劇は始まります。ハガルとイシュマエルはサラ達が立つべきところに立たないところから出た犠牲者なのです。

 子の無いサラに代わって召使ハガルはアブラハムの子をはらみました。自分がみごもったことでサラを見下したハガルは、サラからいじめられ、逃げだします。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」それが出来ないでサラのもとを逃げだしたハガルに、天の使いは言います。
 
 考えてみれば、主人の所がいずらくなったのは主人だけの原因ではありません。ハガルも問題です。相手も悪いですが、自分にも原因の一端はあるのです。強い者には強い者の悪があり、弱い者には弱い者の醜さがあります。上の者の我がままと、下の者のずるさがあるのです。 
 苦しくはあっても立つべきところに立つ。したいかしたくないか、得か損かではなく、しなければならないことをしていく。ここに立たなければ本当の問題の解決はなく、問題はもっと混乱します。問題を先送りにすれば倍になって帰ってくるのです。

 私たちを顧みていて下さる神様(エル・ロイ)がいるのです。播いたものを刈り取って流す涙を知っていて下さる方がいるのです。間違えてもいいのではありませんし、失敗しないに越したことはありません。でもその辛い涙を知ってくださる方がいるのです。ですから立つべきところに帰ります。するとそこに泉があるのです。 

                                                        富里教会 牧師 内田 汎             

2008/3/23 日曜日

イースターの嘉信

「神の出来事」                              マルコ 16・1ー8 

 イエス様の復活にふれた婦人たちは戸惑い恐れました。私も戸惑い迷いました。十字架については語りますが、復活については薄雲がかかったようで歯切れが悪いのです。二つの事を知ることで薄雲が晴れました。

 聖書にはイエス様の復活について納得のいく説明はありません。天使が現れて、空虚な墓を示してキリストの復活を宣言しただけなのです。
 納得できることと信仰は違います。納得したのであれば信じる必要はありません。物ならば切り刻んで納得するまで調べることが出来ますが、人格の関係は最後は信じる以外ないのです。見ても信じますが、見ないでも信じられるのはもっと幸いです。
 イエス様の十字架は比類ない愛の話です。私たちの周囲にある愛の話はいつも暗い影がついて廻ります。愛の話であればあるほど悲しい話でもあります。しかし私たちのために十字架に掛けられたイエス様は甦えられたのです。ここに私たちの救いの突き抜ける喜びがあります。

 クリスマスは神の愛が明らかになった時ですが、イースターは神様が生きて働いていることが明らかになった時です。
 この神様に「ガリラヤ」で出会います。神様を信じる者より信じない者のほうがはるかに多く、逃げだしたくなるような問題や課題のある生活の場、私の「ガリラヤ」で出会います。そこに甦りの主はおられるのです。

富里教会 牧師  内田 汎
 

2008/3/16 日曜日

十字架の意味

 「暗さをつき抜けて平安へ」                  マルコ 15・33ー47

 イエス様は十字架の上で六時間苦しまれ、地上の生涯を終え、墓に葬られました。
 マルコは押さえた筆でその“事実”を伝えます。感情をさしはさまない描写だけに、イエス様の様子がひしひしと伝わってきます。
 二つの異変を記します。「昼の十二時になると、全地は暗くなり」と、イエス様が息を引き取られた後、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ことです。マルコはこの二つを記すことで、イエス様の十字架の“意味”を伝えたかったに違いありません。

 「暗さ」とは、神に捨てられる暗さです。神をもたない暗さです。信じるべき方をもたず、人生の夕暮が近づき、体力に陰りが見え始め、一体自分はどこに向かっているのか、私たちの知る暗さはその片鱗にすぎません。
 イエス様のして下さったことにより、神様と人を隔てるものが取り去られたのです(ヘブライ9章)。信じる方をもつ平安と幸いの道が開かれたのです。

 「何の疑もなく/こんな者でも/たしかに救って下さると信ずれば/ただあり難し/生きる張合がしぜんとわいてくる」 八木重吉

                                    富里教会 牧師  内田 汎

                                                      

2008/3/9 日曜日

思惑をくずす

 「思いを越える救い主」             マルコ 6・1ー6 

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。…その手で行なわれる奇跡は一体なにか。この人は大工ではないか。マリヤの息子で…兄弟、姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」                                      
 

 これは郷里の人々の反応です。故郷の人たちはイエス様の氏素性を知っているとして、その本質を見るのではなく周辺で判断してしまいます。これはある意味では致し方のないことでしょう。イエス様は「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。 
                                 
 しかしこれはイエス様を上辺で誤解したというだけではなく、本質にかかわる躓きでもあります。
 「マリヤの息子」と故郷の人は言いました。ユダヤでは人を語る時は父の名を言いますから、これは異例です。故郷の人たちもマリヤが結婚前に身重になったことを知っていたのでしょう。私たちは「主は聖霊によって宿り処女マリヤより生まれ」と感謝をもって告白していますが、故郷の人たちは揶揄を持ってそれを語ります。自分たちはお前の事を何もかも知っているぞと言います。実は故郷の人たちにとってもイエス様は、何もかもを知られ、知っているからこそ救い主なのです。それがわかりません。
 

 私たちと一緒に住んだからこそ私たちの痛みも悲しみも、問題のすべてをわかっていて、執り成して下さるのです。それが受肉の意味です。そういう救い主なのです。                                     

                                                                    富里教会 牧師  内田 汎

                                                      

2008/3/2 日曜日

生ける神の業

 「奇跡と信仰」               

                                   マルコ 5・35ー6・6

 イエス様のご生涯には4種類の奇跡があります。自然(嵐を鎮め、パンを与えるなど)、肉体(各種の病気を癒す)、悪霊(悪霊を追い出すなど)、死(死者を生き返らせる)に対して行なわれたもので、それはイエス様が自然界、肉体、霊界、死に対してすら主であられることを示しています。

 奇跡はイエス様の人々への深い愛の発露であって(自然に対しての奇跡ですら)、ただ人を驚かせたり、奇跡のための奇跡はありません。
 奇跡はイエス様への信頼と従順のあるところで行なわれ、それの無いところでは起こりません(6:1ー6)。
 もっとも大切なことは、奇跡は神様が神様として崇められるためのものであって、私の都合のためではないことです。ある者は病気が癒されて神様の栄光を現わし(ヨハネ11:1-4)、ある者は癒されなくても、それに耐える 力が与えられて神を賛美し、その栄光を現わします(2コリント 12:7-10)。

 生ける神様を信じ従うのですから、奇跡の無い信仰はありません。信仰は人生観や世界観ではないのです。奇跡の問題は、私が行なえるかどうかではありませんし、私に都合がいいかどうかでもありません。神様にとって必要かどうかなのです。

                                                                                                    富里教会 牧師 内田汎

   



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