説教・行事

2008/4/28 月曜日

恵みや愛は自分から受け止めていくもの

「本物と模倣」            創世記 19・15ー29 

 自分の責任で決断しなければならなくなった時、人はその本質が明らかになります。
 アブラハムから住む場所の選択を迫られたとき、ロトは迷うことなくよく潤った地を選び取ります(13章)。年老いて子の無い伯父アブラハムへの いたわりはありません。ソドムの町の滅亡を前に立退が迫られた時、その生活や富に妻と共に未練を残します。富が悪であったり、貧しさが清いのではありません。ただロトは目先のことだけを見て生きていたのです。 

 小さい時からアブラハムと行動を共にし、その祈りを聞き、決断の仕方も見ていたはずです。しかしロトはそこから何も学んでいません。ロトのしたことは、アブラハムの模倣だったのです。 
 模倣は大切です。何事も初めは模倣から始まります。模倣から学び取り自分のものにしていくのですが(ヨハネ 4:42)、ロトにはそれがありません。

 ロトに神様の恵みがなかったのではありません。ただ神様の恵みは自動的に与えられものではなく、自分から自分のものとしていくものです。ロトはいつも自分が中心で、目先の計算しかないのです。アブラハムのように心の一番深いところに神様がいないのです。神様の愛に信頼する突き抜けた喜びがないのです。

                                                      富里教会 牧師   内田汎
                                                      

2008/4/20 日曜日

悔い改めて赦しに生きる

「神の前で生きているか」      マルコ 6・14ー29

 ヨハネの生涯は救い主を迎える準備でした。救いは真実な生活に私たちを導くことですから、救いのための最大の準備は、罪を示し、悔い改めに導くことです。あなたの生き方は神の前でそれでいいのかと人々に鋭く迫り、返す刀で領主ヘロデの不義も裁きます。そのためヨハネは、マケラスの要塞に幽閉されます。            
 ヘロデはまさか自分の誕生日にヨハネを殺害するなど思ってもみなかったに違いありません。酒に酔って、ヘロデヤの連れ子サロメに軽口をたたき、自分の面子のためにヨハネを殺してしまいます。

 ヘロデのしたことはダビデのしたこととそっくりです。ダビデはウリヤの妻バト・シェバを自分のものとしてしまいます。預言者ナタンによってそれが糾弾されたことも同じです。しかしダビデは自分の面子を捨てて神様に赦しを請い、逆にヘロデはヨハネを殺してしまいます。

 人が救われるのは罪を犯さないからではありません。間違いや失敗のない人は一人もいません。罪を犯したあと、面子にこだわるか、神様の前にへりくだるかなのです。
 神様の前で自分の罪に気付き、イエス様によってその罪が赦されていることには、もっと気付きたいと思います。

2008/4/13 日曜日

死を前にして

 「わたしを知る神」                         詩編 139・1ー18 
     
 三種類の死があります。三人称の死は、例えば新聞で報じられる様なので、心は痛めますが所詮第三者の死です。 二人称の死は、私と一緒に生きてきた「あなた」の死で、腹に食い込みます。 一人称の死は、私の死で、どうしていいのかわからない不安と恐怖です。この死を前に、私たちは何を持っているのでしょうか。
 
 詩編139篇は神様の全知、全能、遍在を賛美した歌です。                信仰の民イスラエルは、バビロン捕囚という出来事で決定的な衝撃を受けました。
 それなりに国は大きくなり、神様から守られ、自分たちも神様を信じていると思っていましたが、バビロン軍が攻めてきて自分たちを根こそぎ滅ぼしたのです。自分の存在と信仰は根底からゆさぶられました。
 自分が神様に従う時神様は祝福して下さり、裏切ったら罰せられる。それは事実ですが、神様の恵みは自分の努力と熱心にかかっているのか。徹底的な絶望の中で、イスラエルの民は裏切っても私を決して捨てない神、私が知る神でなく私を知る神を知らされたのです。        
 
 信仰にはこの転換がどうしても必要です。これが分かっていなければ、何もかもを私から奪い取る死の前でどうするのでしょうか。礼拝するから神様は私を守のではなく、私たちを守り覚えてくださる神様を礼拝しています。死の時も御手のうちに置いてくださる神様を私たちは礼拝しているのです。
                                                      

2008/4/6 日曜日

与えられたのは与えるため

「恵みを携える者」                            マルコ 6・6ー13 

 イエス様は二人を一組にして弟子たちを伝道に遣わされました。その際何を告げるか以上に、どう生きるかを語られます。伝道は言葉でもなされますが、私たちの生き様がそれ以上にイエス様を伝えるからです。

 旅には杖一本を持ち、履物をはくだけで、パンも袋もお金も持たせませんでした。物が伝道するのではないのです。生ける神様の愛の支配、思い煩いとは無縁な生活をその生き方で伝えるのです。
 その土地で、都合が悪くなったらすぐに引っ越すような無責任な生活(伝道)はしません。
 更にまた、主の支配を受け入れなければ神様と無縁の生活を送ることになることを、行動で(足のチリを払い落とす)示します。これを無視すれば神様の恵とは無縁の生活を送ることになるのですよと。私たちが委ねられ、神様の支配を語る言葉は無視されてよいはずはないのです。

 イエス様もパウロも伝道を命じました。伝えることで私に伝えられた福音が更にはっきりするからです(Ⅰコリント9・23)。
 また、自分が救われるだけで周りの者に救いが語られないとすれば、それは聖書の信仰ではありません(創世記12・3)。知らされたのは伝えるためであり、涙が拭われたのはイエス様と一緒に涙を拭う者になるためなのです。

                                   富里教会 牧師  内田 汎
                                                      



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