2008/4/6 日曜日
与えられたのは与えるため
「恵みを携える者」 マルコ 6・6ー13
イエス様は二人を一組にして弟子たちを伝道に遣わされました。その際何を告げるか以上に、どう生きるかを語られます。伝道は言葉でもなされますが、私たちの生き様がそれ以上にイエス様を伝えるからです。
旅には杖一本を持ち、履物をはくだけで、パンも袋もお金も持たせませんでした。物が伝道するのではないのです。生ける神様の愛の支配、思い煩いとは無縁な生活をその生き方で伝えるのです。
その土地で、都合が悪くなったらすぐに引っ越すような無責任な生活(伝道)はしません。
更にまた、主の支配を受け入れなければ神様と無縁の生活を送ることになることを、行動で(足のチリを払い落とす)示します。これを無視すれば神様の恵とは無縁の生活を送ることになるのですよと。私たちが委ねられ、神様の支配を語る言葉は無視されてよいはずはないのです。
イエス様もパウロも伝道を命じました。伝えることで私に伝えられた福音が更にはっきりするからです(Ⅰコリント9・23)。
また、自分が救われるだけで周りの者に救いが語られないとすれば、それは聖書の信仰ではありません(創世記12・3)。知らされたのは伝えるためであり、涙が拭われたのはイエス様と一緒に涙を拭う者になるためなのです。
富里教会 牧師 内田 汎