説教・行事

2008/6/22 日曜日

気になる課題と取り組む

 「主の山に備えあり」                創世記 22・1ー19

 「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを… 焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」

 なんと恐ろしい言葉でしょう。しかし、アブラハムは神様の言葉に従いました。神様の言葉と親の愛情の板挟みになり、モリヤの山へ行く三日の道程は祈りの一歩一歩だったに違いありません。

 ここに信仰の従順があります。従順とは、何もかもが分かり、納得した上で従うのではなく、自分には自分の考えや思惑があっても、たとえ自分の意にそわなくても、神様のお言葉に従うことです。結局信仰とは、神様の前に自己主張することではなく、神様の主権に服することなのです。
したいかしたくないか、好きか嫌いか、得か損か、私たちはことを決断するときいろいろ考えます。しかし最後は、しなければならないことを避けず、先送りせずに取り組んでいくのです。

 アブラハムが裏切っても神様は彼を愛し、彼が背いても、神様は約束を変えることはありませんでした(16章)。アブラハムはその神様に応えたのです。

 恵みに目が開かれ、苦悩の中で神様に従順に従うとき、「主の山に備えがある」のです。

2008/6/15 日曜日

信仰とは神様との人格の関係

 「祈り-見事な交渉」                 マルコ 7・24ー30

 病気の娘を持つギリシャ語を話す女がイエス様のもとに来て、娘の癒しを願いでました。しかしイエス様はその願いを拒否なさいます。これは信仰の大切な一面です。

 女は熱心に願いましたし、熱心がなければ事がならないことも事実です。しかし熱心の裏側には、自分中心や身勝手がしばしば隠されています。身勝手を助長することが信仰ではありませんし、救いとは私の願いがそのまま叶えられることでもありません。神様の御旨がなり、御旨だけがなることなのです。

女は初め、弟子達がうっとうしく思うほど執拗にイエス様に願いました。しかしイエス様から「子供たち(イスラエルの民)のパン(救い)を取って、子犬(異邦人)にやってはいけない」とのお言葉を聞くと、そこに神様の確かな愛を知りました。特定の人を愛さないでいて、世の中の皆を愛するなどと言うことはないのです。それが判った女は、「お言葉通りです。まずイスラエルを愛することはわかりました。でもその愛はイスラエルだけでなく周りの者にも及ぶことは否定なさらないでしょう」と願ったのでした。必死な願いからイエス様の愛に身を委ねたユーモアにも満ちた願いになりました。

 人の甘えや我がままには決して動かされない厳しい意志と、同時に真剣な求めに耳を傾け、時には御心を変えて下さったとしか思えない仕方で心砕いて下さる神様です。女はこの神様に願ったのです。祈りとはこの神様の愛に身をゆだねることなのです。
 

2008/6/8 日曜日

内側にもある問題

 「人をけがすもの」                 マルコ 7・1ー23 

 この当時人々は、衛生の意味ではなく手を洗い、器を清めました。汚れを自分の中に入れないためです。それをしなかった弟子達が責められることがきっかけで、人を本当に汚すものは何かをイエス様はお教え下さいました。これは当時では考えられない、画期的なことでした。

問題は体ではなく、心です。汚れと罪は必ずしも一つではありませんが深いところでは繋がっています。体に入るものが人を汚すのではなく、心の中から出て来る思いと言葉と行いとが人を汚すのです。あなた自身が汚れているのだと指摘されたのです。          
 
不幸にして別れなければならなかった人が、相手の非だけを言いつのっている間は立直れないと言います。たしかに相手が悪いに違いありません。しかし自分にも非のあることに気が付かない人は、立直れないのです。今の社会は犯人をしたてあげ、責任を転嫁する社会です。しかし罪は外にあるのではなく、私の内に在るのです。

 自分の汚れ(罪)に気付かないことは不幸なことです。罪(問題)を知らなければ自分の新しい出発も、再生もないからです。自分の中のけがれ(罪)を知ることはつらい事ですが、それが幸いなことなのです。しかしもっと幸いなのは、そんなわたしたちがイエス様によって赦され、受け入れられていることを知ることです。

2008/6/1 日曜日

不安をどう解消するか

 「恐れるな」                 マルコ 6・45ー56 

 真暗な中で逆風に漕ぎ悩む弟子達のもとにイエス様は近付いて来られ、悲鳴をあげる弟子達に、「私だ、恐れるな」と言われます。 

 人は絶えず恐れと不安にかられます。それはどこから来るのでしょうか。
原因の一つは、私たちが何かを持っていることにあります。持っているので、失うのではないかと恐れます。財と地位を持っています。失敗したり健康を損ねて、将来を失うのではないかと恐れます。
 それらの集計は生命です。所有はすべて生命につながっています。最後は命を奪われるのではないかと恐れます。私たちの生命は、なんと不安に満ちていることでしょう。
 しかし、一体、人に時を与え、人を本当に支えているのは誰なのでしょうか。不安はその神様をのけものにしてそれらを持とうとするところから来ます。人は恐れをなくすことも、所有を捨てることも出来ません。イエス様の十字架の贖いと赦しのゆえに、神様を信頼し、神様から託されたものとしてそれらを持ち、委ねられていることに私たちは気付かされたのです。

 恐れは「先のパンのこと(本当に生命を支えてくださる方が共にいること)を悟らなかったから」であり、イエス様が舟に乗り込まれると(私たちがイエス様を受け入れると、イエス様にゆだねること)嵐は止んだのでした



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