説教・行事

2008/7/29 火曜日

最上のわざ

この世で最上の仕事は、何であろうか。
 美しい心で年をとり、働きたくても休みをとり、失望しそうな時
にも希望をもち、すなおに平安に自分の十字架を担う。
若者が元気一杯、はつらつとしてかっぽするのをみてもねたみは
しない。
人のためにい働くよりよりも、素直に人の世話になり、弱っても、
もはや人のために役立たなくても、親切で柔和でありたい。
老いの重荷は神の賜物、古びた心に自分で最後の磨きをかける、
まことの故郷に帰るため。
 自分をこの世をつなぐ鎖を少しずつ外してゆくのも、大切な仕事
のひとつ。
 そして何もできなくなれば、それを謙遜に受け入れよう。
 神は最後にもっともよい仕事を残してくださる。
 それは祈りだ。
 手はもはや何もできなくとも、合掌はできる。
愛する全ての人々に神の恵みを願うために。
すべてを終えてしまったら、臨終の床で神の声を聞くだろう。
『来たれ、わが友よ! われ汝を見捨てじ』と。

(H・ホイヴェルス神父の祈りより)

2008/7/20 日曜日

救いの保証

 「天からのしるし」                    マルコ 8・11ー13

 ファリサイ派の人々はイエス様を試そうとして、天からのしるしを求めて議論を仕掛けてきました。
 彼らは初めから、教えを請うためではなく、天からの徴(天変地異など)を示せるメシヤかどうかを試すためにイエス様に向かいます。しかもそれを声を荒げたり暴力的なし方で迫ったに違いありません。
 
イエス様は無理をなさいません。聞く気持ちの無い者にいくら良いことを言っても駄目ですし、神の子の力をもって訴えるようなことはなさいません。信仰はイエス様との深い信頼関係ですし、人格関係だからです。イエス様は追われる様にその場を離れます。

 私たちもしるしを求めます。しるし(保証)が無くても信頼できればそれにこしたことはありませんが、弱さと破れをもつ私たちには致し方の無いことです。
 本当に神様が愛をもって支配し、私たちを支えて下さっているのか、真剣に信仰に生きようとすればするほど不安になり、しるしがほしくなります。  
そんな私たちに神様はしるしをお与え下さいました。「神はそのひとり子をお与えになったほど、世を愛された」(ヨハネ 3:16)のです。イエス様ご自身がその(ヨナの)しるしです。さらに教会を与え、この身にいつも神様の愛を覚えることが出来るように、洗礼と聖餐もお与え下さいました。
 

2008/7/13 日曜日

恵みの経験を記憶し口にする

 「忘れっぽい私たち」                マルコ 8・1~10 

 昔イスラエルの人々はシナイの荒野で神様につぶやきました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べたのに」(出エジプト16章)と。あの紅海を歩いて渡る大きな経験をしたすぐ後のことです。マナが与えられました。
 しばらくしてまたつぶやきました。「だれか肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは肉をただで食べていたし、胡瓜やレモン、にんにくも忘れられない。どこを見回してもマナばかりでなにもない」(民数記11章)と。大の大人が、ひげずらで泣き喚くのです。この時はウズラが与えられました。

 神様の恵みほど忘れやすいものはありません。痛みや悲しみは時とともに薄れていきますが、喜びや恵みも時とともに色あせていきます。
 私たちはイスラエルの姿を笑えません。自分の病気、家族の問題、仕事のこと、まるで神様が一緒でないかのようにうろたえ、神様の恵みを一度も見たことがないかのようにつぶやくからです。
 
パンの奇跡はマルコには二度記されています。ある人は重複記事だと言いますが、6章では神の民イスラエルに対して、8章では異邦人に対してなされたパンの奇跡、誰が人を本当に支えるのかを示したものです。ふに落ちないのは、二度その奇跡に与かっているのにまるでそんな奇跡があったのかと思われるような弟子たちの反応です。
しかしこれが私たちです。神様の業はとにかく忘れっぽいのです。
荒涼とした人生の荒野で、私たちを生かし支えてくださる方がいるのです。それが私の願いだけでなく、イエス様のお心だと言われます。信仰生活は、私の人生を支えてくださる方を確認しつづける生活です。
                                                                    富里教会 牧師 内田汎

2008/7/6 日曜日

対話の回復

 「人の言葉が聞けるようになる」          マルコ 7・31ー37 

 デカポリスは、その名の示すようにギリシャ化した町で、文化も経済も発展した町でした。その町で耳が聞こえず、舌の回らない男がイエス様のもとに連れてこられました。この男は現実に耳と言葉が不自由な人でしょうが、私たちの象徴でもあります。文化や経済に関係なく、親子でも夫婦でも思いが通じないのが私たちだからです。 
 そんな時私たちは、なんとか相手を理解し、赦してその関係を回復しようと努めます。しかし信仰は違う方向からこの問題に迫ります。

 主イエスは彼を一人連れだし、両耳に指を差し入れ、唾で舌を潤し、天を仰いで深く息をつき(うめき)ました。遠くからそれを見ると、イエス様とその男が一体となったように見えたことでしょう。イエス様は彼のわずらいを身に受け、その病いを一緒に負う十字架のイエス様です。

 私が一人神様の前に立たされる時、そして私の苦しみや罪が十字架の主に担われていることを知る時、「開けよ」の御言葉が聞こえ、神様と隣人との会話が始まります。
 愛そうとするのでなく愛されている事、赦す以上に赦されている事を知る者が信仰者です。ここに立ち続けるとき何事かが始まるのです。神様のこの愛が腹に入っていますか。
 

2008/7/1 火曜日

神よ、なぜなのですか。

 「神とこの世の不条理」                ヨブ記  1:1-2:13

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」 (1:21)

「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、
不幸もいただこうではないか」 (2:10)

 この世では、なぜ不正を行なう者が富を得たり、誠実に人生をおくるものが先日の秋場原の通り魔事件の被害者のような目に会うのか。こうした世の不条理の問題に取り組み、解答を示しているのがヨブ記です。
 
無垢な正しい人で神を畏れ、悪をさけて生きていたヨブは、多くの財産(家畜)と仲のよい10人の子供たちに恵まれていました。
ところが天災や略奪にあって、一朝にして全財産と10人の子供たちを失いました。更に彼の肉体に災いが及び全身ひどい皮膚病におかされ、悪臭とひどい痛みとかゆさに悩まされるようになってしまいました。しかしそれでもヨブは信仰を捨てません。

上記の二つの言葉は、災難を受けた直後にヨブが語った信仰の告白です。
ヨブの信じた神、聖書が示す神は、人間の側の願いに都合よく応えて、安易にご利益を与える方ではなく、すべての存在の創り主として、すべてを支配し、私たちがどのような状況にあっても変わらず、見守ってくださる方なのです。
富里教会協力牧師 島津 敬一



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