説教・行事

2008/3/9 日曜日

思惑をくずす

 「思いを越える救い主」             マルコ 6・1ー6 

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。…その手で行なわれる奇跡は一体なにか。この人は大工ではないか。マリヤの息子で…兄弟、姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」                                      
 

 これは郷里の人々の反応です。故郷の人たちはイエス様の氏素性を知っているとして、その本質を見るのではなく周辺で判断してしまいます。これはある意味では致し方のないことでしょう。イエス様は「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。 
                                 
 しかしこれはイエス様を上辺で誤解したというだけではなく、本質にかかわる躓きでもあります。
 「マリヤの息子」と故郷の人は言いました。ユダヤでは人を語る時は父の名を言いますから、これは異例です。故郷の人たちもマリヤが結婚前に身重になったことを知っていたのでしょう。私たちは「主は聖霊によって宿り処女マリヤより生まれ」と感謝をもって告白していますが、故郷の人たちは揶揄を持ってそれを語ります。自分たちはお前の事を何もかも知っているぞと言います。実は故郷の人たちにとってもイエス様は、何もかもを知られ、知っているからこそ救い主なのです。それがわかりません。
 

 私たちと一緒に住んだからこそ私たちの痛みも悲しみも、問題のすべてをわかっていて、執り成して下さるのです。それが受肉の意味です。そういう救い主なのです。                                     

                                                                    富里教会 牧師  内田 汎

                                                      

2008/3/2 日曜日

生ける神の業

 「奇跡と信仰」               

                                   マルコ 5・35ー6・6

 イエス様のご生涯には4種類の奇跡があります。自然(嵐を鎮め、パンを与えるなど)、肉体(各種の病気を癒す)、悪霊(悪霊を追い出すなど)、死(死者を生き返らせる)に対して行なわれたもので、それはイエス様が自然界、肉体、霊界、死に対してすら主であられることを示しています。

 奇跡はイエス様の人々への深い愛の発露であって(自然に対しての奇跡ですら)、ただ人を驚かせたり、奇跡のための奇跡はありません。
 奇跡はイエス様への信頼と従順のあるところで行なわれ、それの無いところでは起こりません(6:1ー6)。
 もっとも大切なことは、奇跡は神様が神様として崇められるためのものであって、私の都合のためではないことです。ある者は病気が癒されて神様の栄光を現わし(ヨハネ11:1-4)、ある者は癒されなくても、それに耐える 力が与えられて神を賛美し、その栄光を現わします(2コリント 12:7-10)。

 生ける神様を信じ従うのですから、奇跡の無い信仰はありません。信仰は人生観や世界観ではないのです。奇跡の問題は、私が行なえるかどうかではありませんし、私に都合がいいかどうかでもありません。神様にとって必要かどうかなのです。

                                                                                                    富里教会 牧師 内田汎

   

2008/2/24 日曜日

頑張れなくなったとき

「信仰の中心点」          
                        創世記 15・1ー21 

 神様はアブラハムに子を与えるといわれます。彼も妻の体もその時はすでに枯れていました。神様は彼を天幕の外へ連れだして言われます。     
 「『天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる。』アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」
これが信仰です。自分の可能性を信じることは信仰ではありません。神様を神様と信じることです。

 私達は報酬の世界に住んでいます。自分が何をしたかで結果を刈り取る世界です。自力更正ですし、行為義認の世界です。聖書は違う世界を指し示しています。働きはなくても義(よし)とされる世界、信仰義認、恵の世界です。私が何をしたかで報われるのではなく、神様が私のために何をして下さったかを信じる世界です。自分は少しも手を貸さず、自分の知らないところで神様は御子を遣わして救いの業を全うして下さったその愛と赦しを信じて歩める恵の世界です。アブラハムはこれを明らかにしました。  

 そうでなければ、神様の愛を信じるだけでよいのでなければ、自分の可能性やしたことだけが問題になるのだとしたら、自分が良いことが出来なくなり、私たちから何もかもを奪う死を目の前にした時、一体どうしたらいいのでしょう。                    
                           富里教会 牧師 内田汎

2008/2/17 日曜日

恐れを信頼に

 「恐れるな、信ぜよ」        
                         マルコ 5・21ー43

 会堂長ヤイロは、危篤な娘を気遣ってじりじりしていました。折角イエス様が娘のところに向かって下さっていたのに、出血の止まらない女のことで時間をとられたのです。そして「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と聞かされます。死は私達から全てを奪います。人生の喜びも、一家の団欒も。人は死の前に無力なのです。

 「恐れることはない、ただ信じなさい」「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」 イエス様(聖書)にとって死は死ではなく、甦るための眠りなのです。この娘も私たち同様にやがて死にます。イエス様は甦りの先取りをされて娘と父を繋がれたのです。

 松原教会山田京二牧師は「私達が求めているのは死なないで生きることであるが(死んだら絶望)、福音が私達に伝えようとしているのは死んでも生きる(死を越えての望み)ことである」と言われます。

 「国籍は天にあり」と言い、「身体の甦りを信ず」と告白します。それは葬式の常套語ではありません。私たちは死を越えての望みに生きています。死は永遠の別れでも、無に帰することでも決してないのです。イエス様が十字架の死と甦りによって私達を天につないで下さったのです。

                                                   富里教会牧師 内田 汎
                       

2008/2/10 日曜日

信仰の成熟

「癒しから救いへ」             マルコ 5・21ー34

 十二年も出血が止まらない女が、群衆にまぎれこんでイエス様の衣にさわりました。衣にでもさわれば癒されると思ってのことです。そして事実癒されました。イエス様は人生の非常口です。
 聖書の信仰はここから始まります。病気が治って一切の問題が解決したのではありません。この女は病気が治って社会に復帰し、結婚だってするかもしれません。病気の時は早く治って生きたいと思うでしょうが、健康になったら一層のこと死んでしまいたいと思う問題にも出会うのです。

 恵みをいただいて、それでこと足れりとする信仰は脆弱です。倦怠と慣れはいつも私たちについて回ります。恵みは時と共に色あせ、感謝は感謝でなくなるからです。                                                           
 私たちは、愛し愛され、配慮し配慮される関係の中で毎日を生きています。信仰とは、神様とこの関係に入ることです。この関係を結ぶためにイエス様は女を捜されたのでした。

 女はイエス様の前にありのままを語って自分を投げ出し、イエス様も「安心して行きなさい」と語られます。目先のあの事この問題の解決だけでなく、その後の生涯を神様の愛と配慮の中で生きられるのです。                                                       

                      富里教会 牧師 内田 汎

2008/2/3 日曜日

揺さぶられよ

 「主人の交代」                マルコ 5・1ー20 

 「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ『いと 高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほし い』イエスが『汚れた霊この人から出て行け』と言われたからである」 

 汚れた霊につかれ、墓場に住む男。これは私たちの象徴です。人との交わりに生きられず、他人を傷つけ、自分も傷ついて苦しむ。そこに救い主が来られると激しくこれを拒む。明らかに矛盾ですが、これが私たちの姿です。

 十字架と甦りの主は、私たちに近付いてこられます。イエス様と出会うことは恐ろしいことです。イエス様から自分に都合のよいところだけを摂取するのではなく、私が倒され、イエス様に組み敷かれる事だからです。これが救いで、これ以外ありません。自分のからが破られない救いなど、自分を超える問題、まして死の前には何の力もありません。      

 苦しい時イエス様に委ねる幸いを私たちは知っています。落ち込んだ時だけでなく、自我に固まった時も、「我が愛におれ、我に委ねよ、我に従え」と言われるイエス様に自分を明け渡し、整えられていくのです。

                       富里教会牧師 内田汎  
 
 

2008/1/27 日曜日

信仰の決断

「行く先を知らないで」            創世記 12・1ー9 

「あなたは生れ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召しだされると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」
                           (ヘブライ11:8)                                
だれもが自分を知り自分も皆を知っている豊かな生れ故郷、そこに生活の基盤のある安定した父の家。そこを離れ、行く先を知らずに神様の示す地へ出ていったアブラハム。 そこには信仰の決断がありました。決断は信仰の冒険であり、信仰による勇気が必要です。行く先を知らないで出発しますが、神様のお言葉にかけて、導きを信じてのことでした。
 私たちは、アブラハムほどではないとしても、しばしば決断を迫られます。どの学校に入り、どこに就職し、誰と結婚するか、何もかもが分かってするのではありません。その際何を基準に決断するのでしょうか。信仰者は、アブラハムが見ていたように、この世を愛をもって支配する神様の導きを信じて決断します。(フブライ11:1-3)  
                                                 
 私たちの日常生活にはいつも大きな決断が必要ではありません。しかし小さな選択の中で、時々立ちどまって、神様の御心に応えること、神様のみ手を見て神と人とに愛し仕えることを訓練します。その積み重ねが、大きな決断につながるはずです。 

                      富里教会牧師 内田汎                                

        

2008/1/21 月曜日

まだ信じないのか

「嵐の中を進む」               マルコ 4・35ー41
                                  
舟は私たちの人生の象徴です。舟は事もなく進んでいくようですが、いつ沈んでもおかしくありません。舟は舟である限り絶対に安全ということはないのです。私たちは自分で漕いで目的地へ行こうとしますし、行ける時もありますが、いつも危険が隣り合わせです。私たちは何と身も心も壊れやすいことでしょう。                      
 しかも嵐は突然襲います。こちらがいくら注意していても、危険は向こうからやって来ます。必死で手立てをつくしても、手に余る嵐が舟を飲み込もうとするのです。                                                         

イエス様はともを枕に眠っておられます。イエス様にとっても嵐は嵐に違いありませんが、世界は神様の支配しておられるところで、嵐の背後にその支配を見て、身を委ねておられるのです。             
弟子の悲鳴に起き上がり、「黙れ、静まれ」と湖を叱られ、「まだ信じないのか」と言われます。
 
湖を舟で渡る私たちにとって嵐は、イエス様が一緒にいて下さることが明らかになる時です。私たちの信じているイエス様がどういうお方なのかが明らかになる時なのです。
「愛する神様、わたしを守ってください。海はあんなに広く、私の舟はこんなに小さいのですから」(ブルターニュの漁師の祈り) その舟にイエス様が乗っておられることがわかるときなのです。

                     富里教会 牧師 内田汎
 

2008/1/14 月曜日

焦らず、委ねよ

「育ちゆく生命の種」         
                        マルコ 4・21ー34

 「でも聞いてください。神様はいるのですよ。ただ存在するだけでなく、愛をもって支配しておられるのですよ。その証拠に十字架にかかり、甦られたのですよ」これを私たちは聞かされました。 
 
 これをどう聞くのでしょうか。初めから拒否するのか、少し心動かされはするもののそれに委ねないのか、他のものにもっと心動かされるのか、それともその言葉に委ねるかなのです。これはどう聞くかの問題です(4:1-20)。                                     
 この箇所は聞き方の問題ではなく、聞いた中身を語っています。私たちに伝えられた生命の言葉は、ともし火のようにどんなに隠してもあらわになり(21ー23)、更に増し加えられ(24ー25)、人の知らないうちに芽を出し、茎、穂を伸ばし、実を結ばせ(26ー29)、小さなからし種のような御言葉が、大きな野菜のように成長します(30ー32)。                                     

 私たちは何を聞いたのかに注意をする必要があります。御言葉をどう聞くかも問題ですが、何を聞いたのかも問題なのです。私のうちに何事かを起こさないではおかない生命の御言葉を聞いたのです。
 
 焦らず、いらだたず、生命の御言葉に自分を任せるのです。

                      富里教会牧師 内田汎

2008/1/6 日曜日

新年にあたって

 「神、我らと共にいます-そのもう一つの意味」          
                 マタイによる福音書 2:13-23

占星術の学者たちは、イエス様を礼拝するとヘロデ王のところへは寄らずに自分の国に帰りました。それを知ったヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺し、そこに深い悲しみが起りました。それは子を亡くしたラケルの悲しみ、かつてイスラエルがアッシリアによって奴隷とされた者の集合地ラマの叫びと同じです。

イエス様は危機一髪でエジプトに逃れ、そこに住み、ヘロデが亡くなった後も大事をとってマリヤの故郷、信仰の光の届かないナザレで成長されました。

マタイはイエス様とモーセ、男の子を殺し続けたファラオとヘロデ、イエス様によって起ったラマの悲劇とアッシリヤ(バビロン)の悲劇を重ね合わせて記します。

マタイは「神は我らと共にいます」の福音を記します。私たちが神様と共にいる以上に神様が私たちと共にいて下さり、世の終わりまで共にいて下さいます。(マタイ28:20)
しかしその私は過去を引きずっています。良いことだけでなく辛く悲しい、ユダヤの過去と同じ、できればやりなおしたいと思う歩みを引きずっています。私たちは自分の過去を忘れたりなかったものとしたりはできません。しかも自分の過去が清算されなければ新しい出発ができないことも知っています。イエス様が「共にいてくださる」とは、そんな私の過去をたどりなおし、踏み直してくださることであり、これが私たちが信じている主なのです。 

新年にあたってもう一度これを確認して出発したいと思います。

                    富里教会牧師 内田汎

 

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